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徴兵制と憲法改正ーー国を守ること

国家、あるいは国という概念には、つねに相対立する思想が含意されている。その一つは、支配者、被支配者を問わず、国民全体を含む国民共同体としての国家であり、他の一つは、主として統治者だけを意味する統治機構としての国家である。この両者は、西欧政治思想史において、キピタスcivitasと、スタトstatoの対立して周知である。もちろん、マキュアベリ以来の伝統的な政治思想において近代国家は、後者すなわち統治機構としての国家として認知されている。西欧語において国家を表現するstate,Staat等は、統治機構を意味している。前者、国家が国民全員を包摂する概念として現象するのは、統治機構としての国家が機能不全に陥った場合のみである。さらに、本邦において、国家には西欧的コンテキストとは異なり、もう一つの思想が付け加わる。それは、国家が生まれ故郷、すなわちクニを含意している場合もある。この第三の思想は、ほとんど死語と化しているが、高齢者には馴染深いものである。私も、自分のクニという場合、生まれ故郷の国、すなわち讃岐の国、あるいは甲斐の国を暗黙のうちに想定している。

ところで、この日本語の国家における三つの相異なる思想を、支配者は意図的に混同しながら使用している。たとえば、若者に「自分の国を守れ」という場合がそれである。若者は、この国家を国民共同体として把握している。この共同体を防御することは、国民の義務であり、道徳的にも肯定される。この国民共同体は、若者の家族、若者が属している共同体において具体化しているからである。しかし、為政者にとって、守るべきは、被支配者ではなく、むしろ統治機構、最終的には為政者自身に他ならない。たとえば、小泉純一郎首相が「国を守る」という場合には、理念的には国民全体、キピタッスcivitasとして、国民全体を守ろうとしているが、最終的には統治機構、スタトstatoとしての国家にしかすぎない。より誇張して言えば、自分とその周辺を守護しようとしているにすぎない。

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