« 2005年10月 | トップページ | 2005年12月 »

ニートと一攫千金の野望

  さらに、ニートの問題は労働の質的変化と対応している。初期近代において、専門労働と素人の趣味との間には、画然とした境界が存在していた。たとえば、小説家になるためには、同人誌に投稿し、同人になり、そこで文壇のボスに認められねばならなかった。素人の手慰みと専門家の作品との間には、越えられぬ境があったと、みなされていた。しかし、後期近代においてこの境界は、ほぼ取り払われた。素人の作品が突如として社会的に認められることが可能になった。しかし、その確率は、その市場に参加予備軍が飛躍的に増大していることを考慮するならば、さしたる変化はないにもかかわらず、その数の増大が喧伝された。 そこで、ニート予備軍は考えている。私も小説家になり、巨万の富を得ることが可能であると。確かに小説家だけではなく、コンピューターの世界においてもその可能はある。著名なIT長者もまた、今日風に言えば、ニートに近い存在であった。彼は、学校にも行かず、ひたすら新たな情報技術を獲得するために、就職せず、また正規の学生でもなかった。この先覚者を模倣して、今日の多くのニートが、コンピューターの様々な領域において自己の才能を信じて、新たな挑戦をしているようである。しかし、今世紀において、もはや情報産業は個人の才覚で一攫千金が可能になる分野ではない。組織された労働者が従事する産業である。そこでは、個人の才能に依拠することはない。21世紀のニートがみている夢は、夢のまた夢で終わりそうである。

|

ニートと社会的承認

労働は、個人を社会へと参加させる重要な手段であるが、その社会という概念が身近な擬似共同体の構成員に限定されることになった。たとえば、中央政治は彼らの関心事ではない。それは国民にとってテレビのワイドショウの一齣でしかない。芸能人の恋愛と同程度の関心しか持ち得ない。

ニートにとって社会的承認とは、国民的水準において設定されたものではない。インターネットを通じて形成された人間関係が彼らにとって唯一の承認集団である。そこでは、あくまでも匿名化された名前を用いた集団内の承認である。生身の、本名での承認は必要とされていない。労働現場において、特殊な例外を除いて、本名で社会的承認を求めなければならない。しかし、インターネットにおいて匿名、あるいは偽名で容易に承認を得られる。したがって、親が労働している、あるいは両親の年金が高額であるかぎり、あえて労働による社会的承認を追求する必要はない。悠々自適な高齢者に似た生活、つまりニート的生活を心置きなくできる。労働を通じて、社会的承認と金銭を求める必要がさしあたりない場合、ニート的生活に満足するであろう。しかし、この生活が人生のどの段階まで許容可能であるかは、まだ確証されていない。

|

ニートと労働

社会問題としてのニート問題

 かつて前世紀初頭、貧困は社会の責任か、個人の責任かという論争があった。その当時は階級対立が激化していたこともあり、貧困は資本主義という社会問題に還元され、現在の福祉という用語の前身である「社会事業」が社会的に認知された。それは、初期資本主義国家が後期資本主義国家、つまり社会国家へと変態する契機になった。

 同様なことが、ニートという社会的存在にもあてはまる。彼らは仕事もせず、専門学校、大学、大学院等への就学もしない2030歳代の若者である。この若者は、生計全般を両親に依存し、労働という社会参加の形式を放擲している。その多くは、ボランティア活動等の社会参加の形式も拒否し、通常自分の部屋に一日中引きこもっているようである。

 彼らの問題は、通常その個人責任に帰せられているが、その総体的観点から考察すれば、社会的責任の問題と関連している。ここでは、その個人的責任に関することではなく、その社会的責任について関説してみたい。

 彼ら問題が社会的問題となる第一の理由は、後期近代において労働に対する社会的承認力が低下していることにある。労働することは、社会的に尊敬されるものではなく、必要に迫られて行う苦役の一つにしかすぎない。とりわけ、大学院等の就業年限が延長されたことにより、20代で労働に従事することは、誇りではなく、屈辱の一つになった。親に資金的余裕がある場合、その師弟は労働から解放されている。ニートであることは、屈辱ではなく、むしろ彼らの誇りの一部ですらある。

|

国民共同体ーー共同体の破壊

国民国家という近代国家に対する性格づけ

 近代国家に関する性格づけは、無限に可能である。たとえば、資本主義国家、社会国家、社会主義への移行期、行政国家、民主主義国家等がさしあたり考察可能であり、このどれもが一定程度、近代国家の本質を明らかにしており、かつどれもがそれだけでは近代国家の全体像を包摂しているわけではない。

 連帯という思想が制度化された社会国家は、国民国家が基礎にある。連帯の対象は、身分、地域に分節化された集団、あるいは共同体ではなく、国民である。この国民は諸国民ではなく、自己の属する単一の国民である。社会国家成立以前においても、連帯の思想が皆無であったのではない。前近代社会においても共同体内部においては、連帯の思想が現実化されていた。血縁共同体、地域共同体、宗教共同体が機能していたからである。本邦においても、人生のイニシエーション(節目毎の儀式)は、村落の宗教施設(神社、寺)において挙行された。また、欧州においては、もちろん村落の教会がそれに相当している。しかし、この共同体的機能はこの共同体の内部に対してしか発揮されない。外部に対しては、その機能は発揮されないばかりではなく、逆の事が生じる。この三つの共同体は、近代的思考と異なり、通常は重複している。その共同体機能は、近代人が想定している以上に濃厚であり、外部に対しては敵対的に機能する。キリスト教的共同体が他の宗教共同体、たとえばイスラム教的共同体、ユダヤ教的共同体に対しては、その構成員抹殺にいたることもあった。

 

 近代国家は、この共同体機能を破壊することによって構築されている。この共同体的機能を国家内機能化することによって、その機能を国民全体に拡大しようとする。

|

国民共同体ーー法規範

国民国家において、国家市民としての共同性が生じる。それは、「我々」という意識である。その意識は様々な水準において構成される。同一の法規範に従うこと、最低限度の生活と何かについて、共同的意識を所有すること等様々である。たとえば、同じ法規範を共有することは、必ずしもその規範に従うことを意味するのではない。しかし、その規範に従わない場合でも、その規範が存在し、その規範から逸脱しているという意識を有していることである。たとえば、売春をしてはならないとか、大麻(マリファナ)を吸引してはならないという規範を持っていることである。これは、現代日本の法規範に従うかぎり、悪であるが、別の国家の法規範(オランダ)に従うかぎり、問題はない。

 

 最低限度の生活(日本国憲法第25条)も、また国民的共同性の水準においてしか構成されえない。国民的同一性が存在しない限り、最低限度の生活という概念も成立しえない。

|

国民共同体ーー連帯

1 

近代(Moderne)において、自由、平等、連帯(=博愛、あるいは兄弟愛)の理念が理念として制度化される。それに対して、前近代(Prämoderne)において、この理念は理念として妥当していなかった。自由についてまず、述べてみよう。古代社会において、自由が絶対的に否定された存在としての奴隷制があった。奴隷なしには、すべて社会活動、経済活動が営まれることはなかった。また、中世身分制社会において、古代社会における奴隷のような絶対的に自由を否定された人は存在していない。自由は身分に応じて配分されている。身分が高くなるほど、自由が相対的に多く配分され、身分が低くなればなるほど少なく配分される。

 連帯の思想もまた、思想もまた前近代社会においてすべての市民が対象ではない。前近代において、連帯の思想はもちろん存在していた。しかし、この思想は、同一の身分間に限定されていた。この連帯の思想は、近代において身分が崩壊することによって、少なくとも同一国家内部に適用される。もちろん、思想としては、キリスト教が一般化することによって、人類に対する連帯として提起されている。しかし、キリスト教が宗教であるかぎり、事実上この人類という枠組は、同一の宗教間においてしか適用されない。キリスト教に属していない人間に対して連帯の思想は適用されない。たとえば、イスラム教徒、ユダヤ教徒に対する差別は、十字軍のようにキリスト教徒にとって自明の事柄である。

 近代において初めて、連帯の思想は自由の思想と同様に国民全体へと拡大される。

|

徴兵制と憲法改正ーー国家の二重性の揚棄

ナウヴェルク(K. Nauwerck 18101891年)は、この国家に関する二つの相対立する概念を以下のようの選択肢を提起することによって、解決しようとする。(田村伊知朗『近代の揚棄と社会国家――初期カール・シュミットと初期カール・ナウヴェルクの政治思想』(萌文社、2005年、128頁))近代における武装組織としての常備軍は、市民に敵対してきた。統治機構において軍隊は、その最も官僚的組織であった。ナウヴェルクは、統治機構としての国家を国民共同体としての国家へと転換しようとした。常備軍はその命令者である国王に忠誠を誓っていたが、この常備軍と並んで、市民武装を提起する。武装した市民は、市民自身に対して責任を持つ。統治機構としての軍隊は、市民ではなく、統治機構それ自体を守護しようとする。市民自身が自発的に武装することによって、統治機構の下級機構としての徴兵制とは異なる形式の市民参加を実現しようとした。

 統治機構としての国家と国民共同体としての国家は、混同されているが、近代国家において二重に存在している。問題は、この二重性をどのように揚棄するかにかかっている。ナウヴェルクの解決策もそのひとつであろう。ただし、初期近代とは異なり、後期近代において市民武装をどのような現実態において実現するかについては、より詳細な検討が必要であろう。

|

徴兵制と憲法改正ーー男女共同参画?

現代日本国家において、徴兵制が導入された場合、男女共同参画の理念に基づいて、女性もまたこの国民共同体へと参加しなければならないし、参加したいと欲しているのであろう。猪口邦子男女共同参画担当相は、この点を推進しなければならない。国防の義務は負わないが、都合のよい場合だけ、男女共同参画を推進するというのも、おかしな話である。

今はまだ国防の義務は、制度化されていない。もし、フェミニスト、とりわけ女性天皇を支持しているフェミニストは、この問題にどのように解答するのであろうか。聞いてみたい。

|

徴兵制と憲法改正ーー国民共同体

また、この国民共同体は、共同体として現象するのは、危機的な状況だけではない。むしろ、近代国家において、その理念が問題になるときには、つねに現象している。たとえば、近代国家における統治機構の大枠を決定する際には、選挙という形式が選択されている。その場合には、理念的な要素、すなわち一人一票制が大きな要素を占めている。もちろん、選挙においてこのような理念的要素だけはなく、現実には様々統治機構の要請によって、理念的要素とは異なる要素が導入されていることが明白である。たとえば、候補者に対する印象を巨大メディアが決定することができることも、今日では周知である。

さらに、この国民共同体としての国家は、投票だけではなく、徴兵制においても現象する。ここでは、年齢以外の要素は加味されることなく、すべての国民が平等的に国家に参加することになる。この徴兵制という水準において国民共同体という理念が現実化される。もちろん、この理念が現実化される際には、その隠された目的、統治機構を守護するという目的が現実化される。この矛盾を支配者は意図的に使用することによって徴兵制を導入するのであろう。

|

徴兵制と憲法改正ーー国を守ること

国家、あるいは国という概念には、つねに相対立する思想が含意されている。その一つは、支配者、被支配者を問わず、国民全体を含む国民共同体としての国家であり、他の一つは、主として統治者だけを意味する統治機構としての国家である。この両者は、西欧政治思想史において、キピタスcivitasと、スタトstatoの対立して周知である。もちろん、マキュアベリ以来の伝統的な政治思想において近代国家は、後者すなわち統治機構としての国家として認知されている。西欧語において国家を表現するstate,Staat等は、統治機構を意味している。前者、国家が国民全員を包摂する概念として現象するのは、統治機構としての国家が機能不全に陥った場合のみである。さらに、本邦において、国家には西欧的コンテキストとは異なり、もう一つの思想が付け加わる。それは、国家が生まれ故郷、すなわちクニを含意している場合もある。この第三の思想は、ほとんど死語と化しているが、高齢者には馴染深いものである。私も、自分のクニという場合、生まれ故郷の国、すなわち讃岐の国、あるいは甲斐の国を暗黙のうちに想定している。

ところで、この日本語の国家における三つの相異なる思想を、支配者は意図的に混同しながら使用している。たとえば、若者に「自分の国を守れ」という場合がそれである。若者は、この国家を国民共同体として把握している。この共同体を防御することは、国民の義務であり、道徳的にも肯定される。この国民共同体は、若者の家族、若者が属している共同体において具体化しているからである。しかし、為政者にとって、守るべきは、被支配者ではなく、むしろ統治機構、最終的には為政者自身に他ならない。たとえば、小泉純一郎首相が「国を守る」という場合には、理念的には国民全体、キピタッスcivitasとして、国民全体を守ろうとしているが、最終的には統治機構、スタトstatoとしての国家にしかすぎない。より誇張して言えば、自分とその周辺を守護しようとしているにすぎない。

|

狂牛病と審議会

http://newsflash.nifty.com/search?action=1&func=2&article_id=te__kyodo_20051114te014&csvname=659562622

 狂牛病の恐れのある米国産牛肉輸入再開が「内閣府専門調査委員会」で決定されたようである。しかし、ここで専門家の意見が、はたして尊重されたのであろうか。決定は、審議会の始まる前にほとんど決定されていなかったのでのあろうか。疑問である。座長代理の意見ですら、ほとんど無視されている。このような審議会ではたして、本当に議論という発話形式が承認されていたのであろうか。

 

|

議論の場所と時間の無ーー市民的公共性の欠如

 秋は学会の季節である。しかし、学会報告に対して議論が生じることは、ほとんどない。通常、一つの報告時間が30分であり、質疑応答の時間は、それを越えることはない(通常、5-10分程度)。学会の本大会における発表は、その多くがそれ以前の小さな研究会等で公表されているからであろう。しかし、それでは、より専門家の集まる小さな研究会での発表でことは済んでいるのであり、改めて発表するまでもない。多くの学会員は、拍手で応えるのみである。

 さらに、問題は学会発表だけの問題ではない。すべての会議、公共的空間において、事前に発表者が詳細な報告書を作成し、参加者はそれに拍手で応えるか、あるいは反対するしかできない。そもそも、発表者の時間がその多くを占め、質疑応答の時間はほとんどとられていない。おそらく、この問題は、官僚が報告書を作成する審議会等でも起きているのであろう。審議会の委員、とりわけ学識経験者は、官僚によって作成された資料の字句を修正することだけにとどまっており、持論を展開する時間は与えられていないのであろう。報告書類の前提そのものに関する議論は、想定されていない。また、事前準備資料を根底から覆すような議論をもしすれば、その委員は今度からそもそも任命されないであろう。煙たがられるか、奇妙な意見を保持しているというレッテルを貼られてお仕舞であろう。

 しかし、それでは議論、とりわけ公共的空間における議論にはならないであろう。すべての案件を拍手で以って応えた旧社会主義国家の会議と同じ水準である。この意味において、我々は金王朝支配下の市民と同じ議論形式しか持ちえていない。もちろん、社会主義的ではなく、資本主義的であるという違いを持っているが・・・・。金王朝の市民も大変であるが、我々もそれを嘲笑して済ませるわけではない。金王朝と同じように拍手で以って、報告者あるいは官僚の意見を、拍手で以って応えているだけである。反面教師にしたいものであるが、精神構造が「金さん一家」と同様であるかぎり、それも無理であろう。

|

謝罪するな、NHKーー市民の私的生活への介入

リンク: @nifty:NEWS@nifty:NHK謝罪し役員報酬を返上(共同通信).

  NHKは、その労働者の私的生活における犯罪を謝罪した。役員の給与の一部を減少させることによって、世間に謝罪した。しかし、この謝罪はその必要もないし、またしてはならない。このような報道姿勢は、労働者の私的生活への巨大企業による干渉を強化することにつながる。

 そもそも、巨大企業は、労働者の内面的な精神的領域に介入することが、可能であろうか。労働者教育の名のもとで、その悩みを聞かねばならないし、また労働者は上司の質問に対して正確に答えねばならないのであろうか。もし、労働者が虚偽の悩みを告白すれば、勤務態度に悪い影響を与えるのであろうか。本案件を例に取れば、放火にいたる心理的過程を把握することを、巨大企業、NHKに民放各社は要求している。もし、NHKがこの要求に応えようとするならば、つねに数万人の労働者の心理を詳細に把握し、その悩みを解決しなければならない。

 このような要求を充たすために、労働者は、毎日数時間、悩みを上司に告白しなければならないであろう。その時間も勤務時間に算入されるのであれば、労働者は労働をするよりも、この悩み告白の時間を増やすであろう。そのような非効率な労働条件を、国際的競争にさらされている巨大企業が労働者に提供するのであろうか。このような要求をする民放各社の経営者自身は、この自社の報道をどのように解釈しているのであろうか。聞いてみたい。

|

謝罪するな、NHKーー自己責任と近代の原理

リンク: @nifty:NEWS@nifty:NHK謝罪し役員報酬を返上(共同通信).

  本案件は、数万人の労働者を有する巨大企業の首脳部が、一労働者の私的生活における犯罪行為の責任をとる形になっている。しかし、巨大企業の経営者は、末端の従業員の私的生活を管理することはできないし、またしてはならない。

 もちろん、従業員の違法行為が業務と密接に関連している場合は、別である。管理責任を問われることが適切であろう。しかし、本案件は、業務との関連が希薄である。仕事上で悩みがあった等の報道があるが、仕事上の悩みのある労働者は無数に存在する。職場の人間関係に悩んでいる労働者は、その私的悩みをすべて上司、ならびに社長に報告しなければならないのであろうか。

 巨大企業がその従業員の私的生活に責任を持つことは、他面で私的生活に介入することである。そのような愚かなことをするマスメディアが賞賛されることは、封建時代に逆行したのであろうか。江戸時代の五人組制度が、形をかえて復活したのであろうか。(現代日本において唯一)封建主義者を自称する呉智英は、この案件にどのように解答するのであろうか。このような案件に対しては、近代的意味で、心置きなく自己責任という言葉を使用すべきである。NHKは、いつから江戸時代=封建主義者に転向したのであろうか。近代の基本原則に忠実であるべきであろう。

  言及するまでもなく、この法に違反したNHK労働者の両親にもまた、責任はない。成人が犯した犯罪に、両親、兄弟、況や親族が責任を取ることはない。まして、職場の同僚、上司が責任をとることはない。この犯罪に対する責任は、犯罪を犯した個人が取るしかない。

|

米国追従か、日本自立か

 現在争点になっている政策、たとえば郵政民営化(郵貯、簡易保険の外資への開放)、義務教育における地方格差の拡大、貧困層、中間階級への課税強化、米軍基地の再編、これらは、すべて米国の意向と密接に関連している。ここで問題にすべきは、米国、あるいは明確に言えば、世界の中心への政策決定の移譲に対する是非である。

 このような観点からすれば、現在問題になっている政策判断基準、大きな政府か、小さな政府かという問題は、小さな問題にすぎない。ここで、明確に、米国追従か、日本自立かという判断基準を政策判断の基準にすべきである。この問題は、小泉氏の個人的性質に還元されてはならない。この問題は、官僚機構全体とも係わっており、自民党、民主党、社民党をも分裂に導く劇薬かもしれない。しかし、現在以上の米国追従によって、日本の国土、国民性そのものが破壊されてはならない。もし、破壊するのであれば、明確に言えばよい。米国の意向にしたがって、日本を破壊しますと。

|

BSE M&A リストラという誤訳の根拠

 カタカナ英語が氾濫している。昨日のブログにも書いたように、このカタカナ英語は、事柄の本質を明確化するためではなく、それを隠蔽するために使用されている。そして、このカタカナ英語のほとんどが、米国由来であることは、偶然であろうか。この翻訳用語を定着させたのは、現在の官僚組織における課長、室長、あるいは課長補佐である。彼らは、30歳前後において例外なく、米国に国費留学している。彼らには、その英語能力に欠陥があるとは思えない。むしろ、平均的日本人以上の英語能力を有していることは明らかであろう。

 なぜ、彼らがその正当な訳語ではなく、むしろ誤訳に近い翻訳語を選択したのであろうか。そこにおいて、彼らの政策意図を込めているのではなかろうか。もし、そうでなければ彼らは無能な役人になるであろう。なぜ、米国の政策、米国の生活状態を日本に定着させねばならないのであろうか。彼らは、米国の留学生活において、日本の官僚の生活水準以上の生活をしてきたことを考慮に入れねばならないであろう。たとえば、住環境という観点からも、日本人の平均的水準以上の生活をしてきたはずである。その水準を維持するために、現在の日本を変更しようとしているのであろう。

 この政策意図を明らかにし、それに代わる対案を市民が準備することが、今求められている。

|

BSE=狂牛病、狂い死病、M&A=会社乗っ取り

リンク: @nifty:NEWS@nifty:楽天1千億円規模増資へ(共同通信).

リンク: @nifty:NEWS@nifty:30カ月以下に月齢緩和要求(共同通信).

リンク: @nifty:NEWS@nifty:「30カ月以下」に拡大を=対日牛肉輸出再開で米農務長官(時事通信).

 奇妙なカタカナ英語が氾濫している。しかし、ここで問題であることは、カタカナを使うことではない。むしろ、カタカナを使用することによって、事柄の本質を不可視なものにすることである。

 たとえば、BSEでは、何のことか通常の日本人には、理解できない。事柄の本質を示すような日本語がかつてあった。それが、狂牛病である。あるいは、もっと分かりやすい翻訳語であれば、狂い死病(通称ヤコブ病)であろう。この病気は、牛だけのものではなく、人間にも係わってくるからである。死ぬのは、牛だけではなく、人間である。本当の恐怖は、牛を食した人間が、苦しみながら、死んでゆくことである。しかも、米国産の安価な牛肉を食べる「下流」日本人が、この狂い死病に罹患して、長期間苦しみながら死ぬ。年収300万円以下の「下流」日本人が、安価な牛肉を求めるからである。おそらく、この米国産牛肉輸入再開を決めた高級官僚、あるいは国会議員たちは、このような牛肉ではなく、和牛、あるいは神戸牛を食するのであろう。彼らの年収は少なくとも、1000万円を超えており、安価な牛肉ではなく、適正価格の牛肉を食することができる。間違っても、280円の牛丼を毎日食べ続けることは、ないであろう。彼らが三食すべてを牛丼の吉野家で取ることは、想像すらできない。このような牛肉を食べる必要がないからである。通常のスーパーマーケットに行けば、和牛も、神戸牛も購入することができるし、高級官僚、財界人、政治家御用達の高級料亭で、100グラム100円の米国産牛肉を提供することは、ほとんどありえない。もし、このような安価の牛肉を提供する高級料亭があれば面白い。それを看板に掲げる神楽坂や赤坂の料亭があれば、一度見てみたい。もちろん、いつまで営業しているかわからないが・・・。

 また、M&Aも、きちんと会社乗っ取りときちんと表記すべきである。この会社乗っ取りは、日本人には分かりやすい。横井英樹氏というこの分野の大物もいたし、それ以外の有名な乗っ取り屋もいたからである。

 このような翻訳による曖昧化は、事柄の本質を隠蔽するものであろう。このようなほとんど誤訳に近い翻訳に対して、たとえば駿河台予備校の大学受験英語模擬試験の採点者は、どのような点数をつけるのであろうか。聞いてみたい。

|

起業と自営業

 このごろ、起業という言葉が流行している。現役大学生、あるいはニートとみなされるような若者が、起業を目指しているらしい。この起業は、たいていの場合、インターネット事業と関連しているようである。これを目指している人は、パソコンと向かいあうことによって、なんらかの利益を得ようとしている。しかし、所謂IT産業で、起業することは、10年前ならいざ知らず、今日では困難である。有名なIT長者の一人は、ホームペイジ作成請負業から出発しているが、今日ではそのような手軽な起業は、ありえない。多くの人が起業家ではなく、そこで労働者として働いているにしかすぎない。

 むしろ、起業するより、自営業者となるほうが分かりやすい。建設業の孫請けの孫請けとして、働いている場合が多い。IT産業であっても、同様である。それは、一国一城の主とは名ばかりであり、外注化された仕事をかなり安価に請け負っているにしかすぎない。このような自営業者家を、起業家と呼ぶような言葉の魔術は、そろそろ止めたほうがよいであろう。

|

« 2005年10月 | トップページ | 2005年12月 »