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スタンダードという虚偽 過剰と不足 

リンク: @nifty:NEWS@nifty:「普天間移設撤回を」決起大会(共同通信).

リンク: @nifty:NEWS@nifty:普天間移設など実現に全力、日米4閣僚が会見で強調(読売新聞).

http://newsflash.nifty.com/news/tp/tp__yomiuri_20051029i316.htm

  スタンダードという言葉が流行している。しかし、このスタンダードは通常、暗黙裡に米国標準を示している。そして、多くの日本人がこの標準に従わねばならないという強迫観念に陥っている。

  しかし、人口的観点、地政学観点からすれば、もちろんイスラム教の圏もスタンダードたりうる。この圏域は、アラビア半島だけではない。むしろ、インドネシアからパキスタンを経て、欧州まで続く圏域を指している。この標準に従えば、一夫多妻制も承認されねばならない。

 もちろん、どのような世界標準であれ、それが理性的でない場合には、それに従う必要は、日本人にはない。どれほど、一夫一妻制の内実が現代日本において貧困であれ、理念上はこの社会規範に日本人は従っているからだ。多くの日本人にとって、このイスラム的標準に従うことは、滑稽であろう。しかし、これが米国由来であると、それに従わねばならないとするのは、占領軍時代の洗脳の結果であろうか。この滑稽さを理解できない日本人は、なぜ多くなったのであろうか。

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一夫四妻制 過剰と不足

 今流行のグローバルスタンダードによれば、一夫四妻制が可能になる。もちろん、この標準はイスラム教徒のものであり、日本人が従う必要もないが、検討には値するスタンダードであろう。

 この一夫多妻制を男性天国?とみなす考えが本邦にはあったし、今でもある。合法的に本妻のほかに妾を三人所有できるのであれば、それは男性にとって天国であると。しかし、この標準は男性にとって地獄である。男女四人づつ、いると仮定してみよう。そこの一人の男性が四人の女性を妻としてしまえば、他の三人は生涯婚姻できない。もちろん、多くの日本人男性は、自らをその幸運な?男性であると仮定しているが、確率的には婚姻できない他の三人になることになろう(結婚できる確率は、四分の一である)。もちろん、四人の妻を扶養するためには、それなりの富を所有していることは、当然である。しかも、四人の女性を性的観点、精神的観点から満足させねばならない。一人の妻を扶養するだけで精一杯の日本人男性が、なぜ、四人の妻を扶養できるのであろうか。オロナミンCを毎日10本飲んでも無理である。

 このような過剰は必要ないし、このようなグローバルスタンダードに従う必要もない。

 

 

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一夫一妻制と平等 過剰と不足 

 近代社会において、過剰と不足は肯定されている。とりわけ、富=金銭の観点からすれば、過剰は明白である。六本木ヒルズの住民は、企業買収騒動において数週間で200億円以上の金銭を獲得したと言われている。200億円とは、通常のサラリーマンの生涯賃金(3億円)の50人分以上の金額である。一般的労働者の生涯賃金50人分を一瞬にして稼いだことになる。彼は、金銭的観点だけから考察すれば、人間の50人分の生涯を生きたことになる。

 しかし、この富の過剰は、一方で富の不足をもたらしている。国内に限定しても、年収200万円以下の労働者は、珍しいものではなくなっている。彼は、六本木住人の数百分の一の賃金しか獲得できない。

 そして、この富の問題は、恋愛関係においても同様な形で生じている。結婚前には、モテル男性には、多くの女性と交際する機会が与えられている。それに対して、モテナイ男性には、ほとんどその機会が与えられていない。そこにおいても、過剰と不足が生じている。しかし、この過剰は結婚という制度があるため、公的には平等に分配されている。もちろん、愛人関係、あるいは不倫関係はあり、厳密な意味で平等ではない。しかし、一夫一妻制という観点において、モテナイ男性もモテル男性も平等に異性が配分されている。ある種の平等的原理が貫徹している。それは、自然=当然という原理に適合しているのであろう。

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ベルリン攻防戦と沖縄攻防戦

 

(本記事は、『ヒトラー最期の12日間』完結編から削除された、本邦とドイツとの戦争責任に関する差異を再編集したものである)。

  第三帝国末期のベルリン攻防戦は、本邦における沖縄攻防戦と似ている。すべての領土が占領されたわけではない。ベルリン攻防戦の時点で、すべてのドイツがソ連軍、あるいは英仏連合軍に支配されていたわけではない。まだ、ドイツ西部はドイツ軍の支配化にあった。そこにおいて敵軍との熾烈な攻防が展開された。本邦において、このベルリン攻防戦に比肩しうるのは、沖縄攻防戦であった。沖縄以外の本土は、空爆を受けていたが、完全占領下にあったわけではない。

ベルリン攻防戦と同様に、ここでも自発的な市民軍が形成されていた(ひめゆり部隊が有名である)。沖縄攻防戦においても、市民部隊が形成され、敵軍の進行を幾ばくか、阻止したはずである。そして、市民軍に参加した市民は、イデオロギー的側面が強く、敗北が決定的になると自殺した人が多かったようである。ベルリン攻防戦において、多くの若き市民防衛隊員が、わけも分からず自殺している。それは、ナチス高官の自殺に比べて明らかに犬死に近いものであった。それだけに、よりこのような若者の死は、感動を呼び覚ますものである。

この事例を現在問題になっている靖国神社参拝問題に当て嵌めるならば、このような一般市民の英霊は、英霊として奉られているのであろうか。この神社にA級戦犯が奉られるべきか否か、が議論されているが、このような問題は些少でしかない。本質は、偶然そこに居合わせていただけのために死んでいった市民の霊をどのように取り扱うべきかである。現在の靖国神社に関する議論は、その点が大きく欠落している。

ベルリン攻防戦において多くのナチス高官が自殺している。自殺したのは、ヒトラー、ゲッベルスだけではなく、多くの文官も自殺している。それに対して、A級戦犯となった将軍たちは、その多くが戦後を生きていた。本邦において、大東亜共栄圏の思想に対してゲッペルスと同様な責任を取った政治家はいたのであろうか。もちろん、強制的にその被害を蒙った旧満州国家住民のような悲劇は沢山あったが、そのような責任を取った(少なくとも死ななくてもよい状況下にあった)政治家、高級軍人はいたのであろうか。もちろん、死ねばよいという選択をここで主張しているのではない。しかし、人間が自ら作り上げた理念にどのように対処するのかが問われている。

 

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『近代の揚棄と社会国家』

 『近代の揚棄と社会国家ーー初期カール・シュミットと初期カール・ナウヴェルクの政治思想』(萌文社)を今春、出版しました。

 内容は、初期近代において、その揚棄=変革が様々な形式において提唱された。社会主義、共産主義、アナキズム等、その形式は多々あったが、後期近代においてその多くは、現実化されることはなかった。しかし、現実化された思想も少なくない。本書が取り上げる社会国家もその一つである。本書は、近代の揚棄一般と社会国家の思想を、シュミットとナウヴェルクの思想的展開において考察している。また、「自由は実現されることはないが、それを希求する」、「世界把握はなぜ不可能であるのか」という現代的主題も取り扱っています。価格も2000円でお釣がきます。

http://www.hobunsya.com/nbook.htm#kindainoyouki 萌文社のホウムペイジ

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「世界に根拠はあるのか」

「世界に根拠はあるのか」

「人は限られた情報のなかでなぜ選択可能か」

という二つの主題で、若人にレポートをかいてもらいました。これらの主題は、現在私が設定している課題とも関連しています。 (『近代の揚棄と社会国家』萌文社、2005年参照)。20歳前後の若人にとって、かなり解決困難な主題です(その多くはほんの少し前までは、高校生でした)。しかし、現在の若者はこの主題に精力的に取り組んでいます。自分の20歳前後を省みるとき、そのようなことは考えてもいませんでした。21世紀の若者の知的能力の高さが鑑みられ、その潜勢力を感じることができるでしょう

 その成果をホウムベイジに掲載してあります。御笑覧いただければ、幸いです。

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『ヒトラー~最期の12日間』死と犬死への序曲 完結編

http://www.hitler-movie.jp/index2.html

(この記事は、これまでの本映画に関する5本のブログを纏めたものであり、この映画に関する批評の最終稿になる)。

戦争映画は数々あるが、戦争の本質の一端を示した映画は少ない。おそらく『ヒトラー ~最期の12日間~』は、その数少ない映画の一つであろう。この映画は戦争映画を超えて人間の普遍的な問題と関連している。たんなる戦争映画という範疇を超えて、一般的人間の感情に訴えている。そもそも、ある映画は、戦争映画、ピンク映画、西部劇、時代劇、任侠映画等という特殊な範疇に分類されている。しかし、その映画がこの特殊な範疇を超えて、普遍的人間の問題と関わるかぎり、その範疇を超えて映画史に刻印される。

この映画が取り扱った本質的主題はかなりの数に上る。それらの複数の主題が競合することによって、戦争映画という範疇を超えてゆく。これは、人間の責任の取り方という普遍的主題と関連している。ある種の理念に殉じることは何かという問題と関連しているからである。自らが構想し、実現しようとした国家社会主義という理念がその崩壊に直面したとき、ヒトラー、ゲッベルス等のナチス高官は、自らの命を絶った。もちろん、ヒムラー、ゲーリングのように、逃亡して、外交交渉においてその活路を開くという手段も残されていた。また、責任など取りようもなく、死ぬ市民も多数あった。

この映画に対する批評として数多く取り上げられたことは、ベルリン陥落直前の総統府における地下要塞に焦点を絞っていることである。地下室において、ヒトラーを中心とするナチス高官たちの人間模様が描かれている。ヒトラーは将軍たちとベルリン攻防戦のために絶望的状況のなかで最後の戦略を練る。ただし、軍事的手段は限られ、妄想的戦略を練るか、将軍たちに怒鳴り散らすだけである。また、そこでは、政治的人間としてのヒトラーだけではなく、エヴァ・ブラウンを中心とする秘書たちとの私的生活が描かれている。そこでは、彼は菜食主義者であり、愛犬を大事にしている一人の老人として描かれている。その点において、限られた空間に焦点があてられた著名なドイツ映画、『U-BOOT』(潜水艦)を想起させる。

この点は、一面では当たっているが、他面において正確ではない。この映画の美しさは、このベルリンにおける地下要塞と、戦争末期のベルリン市民生活が対照をなしていることにその本質を持っている。後者において、戦争の悲惨さが描かれている。そこでは、シェンク教授(軍医)が中心となり、市民の戦争時における日常(麻酔なしでの手足の切断という、医薬品の無い状況での医療行為)が描かれている。この映画の主人公の一人でいってよい。

 前者、つまり総統府においては、日常生活に必要なもの、電気、水道等は完備されている。また、嗜好品、酒、煙草、菓子は充分供給されており、その配給をめぐる人間の悲惨があるわけではない。映画のなかでは、将軍、参謀達は、しばしば泥酔しており、秘書は、煙草を喫している。しかし、彼らは死を予感しており、その準備のために酒を飲み、煙草を喫している。自殺する参謀が、その直前に煙草を喫して、吸殻を絨毯に投げつけ、足で踏み潰すシーンは象徴的である。総統府には、人間が生きてゆくための物質的悲惨さはない。青酸カリも潤沢に用意されている。人間は物質的悲惨がないかぎり、観念に殉じることができる。

この限られた空間においてベルリン陥落という状況下にありながら、ヒトラーも含めた高官たちが、ありもしない「第9軍」、あるいはシュタイナー軍団がベルリンを解放してくれるという幻想に浸っている。少なくとも、常識的に考えれば、ベルリン市民が水道、電気等がない状況下において、そのようなことはありえない。にもかかわらず、そのような自己にとってのみ、有利な情報を選択し、都合の悪い情報をないものと考えることはよくあることである。ほとんど、ありえない状況を仮構し、そのなかで夢想することは、人間にとって幸福である。しかし、いつかこの幸福な状況は現実に直面することになる。ヒトラーのこの仮定を、幻想、妄想として嘲笑することは、簡単である。しかし、我々もまた、この嘲笑される状況下にあるのかもしれないからである。

 しかし、この幻想も長くは続かない。地下壕もまた空爆される。ヒトラーを含めたナチ高官がその理念に殉じることになる、とりわけ、ゲッベルス宣伝相の家族は、夫人だけではなく、その幼児までも、その理念に殉じるということを強制した。もちろん、幼児にこの強制に対する反抗手段は残されていなかったが。それを狂気とみなすことは、簡単である。しかし、何か人間の美しさを表現していると言えなくもない。少なくとも、映画においてヒトラーの死よりも、涙を誘ったのは事実である。

他方、ベルリン市民生活では、人間の最低限度の生活(水、医薬品等)は保障されておらず、人間生活の悲惨さが充満している。ヒットラーやその周囲の高官たちの死がそれなりに必然性を持って描かれていることと対照的に、多くの市民、下級兵士、市民防衛隊員は、あっけなく死んでゆくことである。何の必然性もなく、その死への心の準備もなく、死んでゆくことである。たとえば、水を汲むために戸外に出た瞬間、爆弾にあたって死ぬように。

もし、戦争の本質が、このような一般市民の突然死であるとするならば、彼らの死は、犬死であろうか。ナチス高官の死と、このような市民の死は等価であろうか。この二つに類型化された死の諸相から、人間の死ということを考える契機になろう。

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『ヒトラー~最期の12日間』理念に殉じること

  この映画に対する批評として取り上げられたことは、ベルリン陥落直前の総統府における地下要塞に焦点を絞っている点ことである。地下室において、ヒトラーを中心とするナチス高官たちの人間模様が描かれている。また、そこでは、政治的人間としてのヒトラーだけではなく、エヴァを中心とする秘書たちとの私的生活が描かれている。その点において、限られた空間に焦点があてられた著名な映画、『U-BOOT』(潜水艦)を想起させる。

 しかし、この点は、一面では当たっているが、他面において正確ではない。この映画の美しさは、このベルリンにおける地下要塞と、戦争末期のベルリン市民生活が対照をなしていることにその本質を持っている。後者において、戦争の悲惨さが描かれている。そこでは、シェンク教授(軍医)が中心となり、市民の戦争時の日常(麻酔なしでの手足の切断、ほとんど医薬品の無い状況での医療行為)が描かれている。この映画の主人公の一人でいってよい。

 前者、総統府においては、日常生活に必要なもの、電気、水道等は完備されている。また、嗜好品、酒、煙草、菓子は充分供給されており、その配給をめぐる人間の悲惨があるわけではない。映画のなかでは、将軍、参謀達は、しばしば泥酔しており、秘書は、煙草をのんでいる。しかし、彼らは死を予感しており、その準備のために酒を飲み、煙草をのむ。自殺する参謀が、その直前に煙草をのみ、吸殻を絨毯に投げつけ、足で踏み潰すシーンは象徴的である。

 後者、ベルリン市民生活では、人間の最低限度の生活(水、医薬品等)は保障されておらず、人間生活の悲惨さが充満している。

 総統府には、この物質的悲惨さはない。青酸カリも潤沢に用意されている。人間はこの物質的悲惨がないかぎり、観念に殉じることができる。その観念が敗北するときに、それに殉じることができる。

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『ヒトラー~最期の12日間』都合のよい情報の選択

 「ヒトラー 最期の12日間」は戦争映画を超えて人間の普遍的な問題と関連している。それゆえ、たんなる戦争映画という範疇を超えて、一般的人間の感情に訴えてる。そもそも、ある映画は、戦争映画、ピンク映画、刑務所映画、アクション映画、ホラー映画、やくざ映画等というそれぞれの範疇に分類されている。しかし、その映画が一般的な範疇を超えて、普遍的人間の問題とかかわるかぎり、その範疇を超えて映画史に刻印される。

 この映画において興味深いことは、ベルリン陥落という状況下にありながら、ヒトラーも含めてた高官たちが、ありもしない「第9軍」、あるいはシュタイナー軍団がベルリンを解放してくれるという幻想に浸っている点である。少なくとも、普通の考えれば、ベルリン市民が水道、電気等がない状況下において、そのようなことはありえない。にもかかわらず、そのような自己にとってのみ、有利な情報を選択し、都合の悪い情報をないものと考えることはよくあることである。ほとんど、ありえない状況を仮構し、そのなかで夢想することは、人間にとって幸福である。しかし、いつかこの幸福な状況は現実に直面せざるをえない。ヒトラーのこの仮定(シュタイナー軍がベルリンを解放する)を、幻想、妄想として嘲笑することは、簡単である。しかし、我々もまた、この嘲笑される状況下にあるのかもしれない。

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『ヒトラー~最期の12日間』市民軍に参加した市民

 この映画は、ドイツ国家社会主義体制末期のベルリン攻防戦を舞台にしている。しかし、このベルリン攻防戦の時点で、すべてのドイツがソ連軍に支配されていたわけではない。まだ、ドイツ西部はドイツ軍の支配化にあった。映画においても、ヒムラー、ゲーリング等は西部ドイツに転戦していった。あるいは、逃亡したのかもしれない。ヒトラーにもこの選択可能性はあった。

 この意味で、ベルリン攻防戦は、本邦における沖縄攻防戦と似ている。すべての領土が占領されたわけではないが、そこにおいて敵軍との熾烈な攻防が展開された。そして、ベルリン攻防戦と同様に、ここでも自発的な市民軍が形成されていた(ひめゆり部隊が有名である)。沖縄戦においても、同様な市民部隊が形成され、敵軍の進行を幾ばくか、阻止したはずである。そして、市民軍に参加した市民は、イデオロギー的側面が強く、敗北が決定的になると自殺した人が多かったようである。この映画においても、若き市民防衛隊員が、わけも分からず自殺する場面があった。それは、ナチス高官の自殺に比べて明らかに犬死に近いものであった。それだけに、よりこのような若者の死は、感動を呼び覚ますものである。

 ナチス高官の死と、このような市民の死は等価であろうか。考える価値は、あろう。ちなみに、沖縄攻防戦に参加した市民は、死亡した場合、靖国神社に英霊として奉られているのであろうか。

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『ヒトラー~最期の12日間』日本の政治家と軍人

 http://www.hitler-movie.jp/index2.html  この映画のホウムペイジ 

 この映画は、戦争映画という範疇を超えて、ある種の人間の責任の取り方という普遍的テイマと関連している。ある種の理念に殉じることは何かという問題と関連しているからである。自らが構想し、実現しようとした国家社会主義という理念がその崩壊に直面したとき、ヒトラー、ゲッベルスは、自らの命を絶った。もちろん、ヒムラー、ゲーリングのように、逃亡して、後の裁判においてその主張を展開するという手段もあったが・・・。

 とりわけ、ゲッベルスの家族は、その幼児までも、その理念に殉じるということを強制した。もちろん、幼児にこの強制に対する反抗手段は残されていなかったが・・・。それを狂気とみなすことは、簡単である。しかし、何か人間の美しさを表現していると言えなくもない。少なくとも、映画においてヒトラーの死よりも、涙を誘ったのは事実である。

 翻って、本邦において同様な理念であった大東亜共栄圏の思想に対してそのような態度をとった政治家はいたのであろうか。もちろん、強制的にその被害を蒙った旧満州国家住民のような悲劇は沢山あったが、そのような責任を取った政治家、高級軍人はいたのであろうか(少なくとも死ななくてもよい状況下にあった)。もちろん、死ねばよいという選択をここで主張しているのではない。しかし、人間が自ら作り上げた理念にどのように対処するのかが問われている。

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『ヒトラー~最期の12日間』靖国神社

http://www.hitler-movie.jp/index2.html この映画の公式ホウムペイジ ブログ形式です。

  戦争映画は、数々あれど、戦争の本質の一端を示した映画は少ない。おそらく、『ヒトラー ~最期の12日間~』は、その数少ない映画の一つであろう。その中で、興味深いことは、ヒットラーやその周囲の高官たち(そして、高官の子供たち)の死がそれなりに必然性を持って描かれていることと対照的に、多くの市民、下級兵士、市民防衛隊員は、あっけなく死んでゆくことである。何の必然性もなく、その死への心の準備もなく、死んでゆくことである。たとえば、水を汲むためにに戸外に出た瞬間、爆弾にあたって死ぬように。

  もし、戦争の本質が、このような一般市民の突然死であるとするならば、彼らの死は、犬死であろうか。この事例を現在問題になっている靖国神社参拝問題に当て嵌めるならば、このような一般市民の英霊は、英霊として奉られているのであろうか。この神社にA級戦犯が奉られるべきか否か、が議論されているが、このような問題は些少でしかない。本質は、偶然そこに居合わせていただけのために死んでいった市民の霊をどのように取り扱うべきかである。

現在の靖国神社に関する議論は、その点が大きく欠落している。

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民間人と靖国神社の英霊

リンク: @nifty:NEWS@nifty:小泉首相、靖国神社を参拝…昇殿・記帳せず(読売新聞).

 総理大臣による靖国神社参拝が問題になっている。小泉総理の説明によれば、戦争によって死んだ軍人の慰霊をすることは、後世の国民にとって当然の責務となる。しかし、第二次世界大戦に限定しても、アメリカ軍の焼夷弾、原子爆弾等によって死んだ日本人は、軍人だけではない。一般市民も多数死んでいる。むしろ、一般人の方が多いであろう。このアメリカ軍の非人道的兵器で死んだ日本人は、英霊ではないのであろうか。同じ広島原子爆弾で死んだ軍人は、英霊であり、民間人は、英霊ではないのであろうか。また、軍需工場における労災で死んだ民間人は、英霊であろうか。この問題は、近代戦争が総力戦であり、民間人と軍人を区別することが、ほとんど無意味になっていることを示している。

 私の個人的見解であるが、戦争による死者は、軍人であろうと民間人であろうと、すべて英霊であるはずである。しかし、前者は靖国神社に奉られ、その家族は遺族年金を支給されている。他方、後者はただ、英霊になることもなく、またその遺族に年金が支払われることもない。この問題が、靖国神社に対して国民的統一性が生まれない根拠であろう。

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旧民社が独自の憲法草案

リンク: @nifty:NEWS@nifty:「軍隊保持」明記、旧民社系議員が独自の憲法草案(読売新聞).

民主党の民社党化が、とりわけ憲法問題においては、顕著である。このような自民党以上に自民党的政策をとるかぎり、その没落は必然であろう。自民党以上に自民党的政策をとるかぎり、包括政党としての自民党に対抗することは、できない。争点、あるいは両党の差異が消滅してしまう。ほとんど、両者に差異がなければ、政権担当経験の無い政党に次期政権を担うことを有権者が選択することは、ないからである。

もし、これ以上、民主党が民社党化するのであれば、西村真悟衆議院議員を党首にしなければならない。

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「自由の意識は、不自由な現実態をなぜ、揚棄するのか」

 若者が考えている主題をホームページに掲載しました。その主題は、

「自由の意識は、なぜ不自由な現実態を揚棄しようとするのか」、

というかなり困難なものです。しかし、20歳前後の若者は、この困難な主題に果敢に挑戦しています。御笑覧のほど、お願いします。

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民主党は民社党へと改名すべきである。 新「民社党」の党首は、西村栄一 元民社党委員長の御子息、西村真悟衆議院議員である。

「自公民」 

Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 憲法改正へ常任委 自公民 調査会格上げ合意

現在憲法改正が準備されている。その際、自民党、公明党、民主党がほぼ同じスタンスで政治的に行動している。この3党には、ほとんど、憲法改正への恐れはなく、イケイケドンドンである。まさに、バブル全盛時のボディコン娘を想起させる。

 ところで、その際、新聞等では、「自公民」という表記が用いられている。おそらく、この表記は、55年体制化で用いられた「自民、公明、民社」と同じである。数十年前にも、この3党は、現在の「自公民」と同じ政治的スタンスを取っていた。今回もまた、同じ政治的立場を取っている。数十年前と違うことは、現在の「自公民」は、全議席の8割を越えていることだけである。かつての社会党、共産党は、ほぼ壊滅している。

 そこで、民主党にお願いする。党名を、民主党から、「民社党」へ変更することをここで、前原党首にお願いする。その方が、日本の伝統的政治と合致するであろう。

民社党の第二代委員長、西村栄一氏の御子息、西村真悟衆議院議員を党首にすれば、民社党復活であり、その政治路線を理念的だけではなく、人脈的にも継承可能である。親子二代にわたって、政治的理念を実現すべきであろう。

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大学講義内容への介入、@nifty:NEWS@nifty:中国留学生にアカハラか香川大(共同通信)

リンク: @nifty:NEWS@nifty:中国留学生にアカハラか香川大(共同通信).

中国留学生にアカハラか 香川大が調査委を設置 (共同通信)

講義で南京虐殺の問題を提起すること、あるいは中国批判をすることは、本案件(アカハラ)とは関係ありません。講義の内容が、特定の受講者を不快にさせることはあります。たとえば、自衛隊を批判することは、自衛隊員にとっては不快でしょう。また、公務員批判をすることは、公務員、あるいは公務員の子弟にとって不快でしょう。ただ、それをハラスメントの対象にすれば、現代社会と関係する講義、たとえば法律学、経済学、政治学、社会学はほとんど講義不能になります。現代社会の事例を用いずに、社会科学の講義をすることは、不可能だからである。

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官から民へ、国民年金民営化

 先日の選挙において、「官から民へ」というスローガンのもとで、郵政民営化が支持された。とりわけ、郵貯、簡易保険を原資とした、各種特殊法人への資金垂れ流しが問題になった。しかし、この問題は、単に法律を変更するだけで問題なかったはずである。すなわち、特殊法人への資金垂れ流し、つまり財投債を購買することを禁止する法律を作れば、それで済んだ話である。にもかかわらず、あくまで郵政民営化に拘ったのは、国民年金の民営化を次の段階において提起する下準備であった可能性は、否定できない。特殊法人への資金垂れ流しの一方の柱が、年金基金であるからだ。この年金基金もまた、どのように使われているのかはっきりしない。円売りドル買いの資金になってもいるようである。

 いずれにしろ、郵政民営化は、亀井静香氏のような自民党の重鎮まで反対していた問題であり、それをあえて強行したのは、おそらく別の問題を隠蔽することを目的にしていたはずである。その別の目的とは何か、それは断言できない。しかし、年金民営化もその一つかもしれない。

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自称エコロジストの倒錯、エコロジストは魚ではなく、肉をたべねばならない? 「築地魚河岸三代目」『ビックコミック』

  ある著名な漫画で、自称エコロジストが、魚を食べることは、自然破壊であり、肉を食べるべきであると、魚河岸の人間に説教する場面がある。「農作物やお肉は人間の手で育てた物がほとんどで、自然の物じゃあないけど、お魚は海に住んでいる自然の生き物を大量に獲っているわけですよ。つまり、自然を破壊しているわけでしょ?」 (はしもとみつお「築地魚河岸三代目」『ビックコミック』小学館、第20巻、2005年、107頁)

  マスコミに流布しているエコロジーとは、そのような観念に支配されているのであろう。とりわけ、アメリカ大陸のエコロジストなら、そのように主張するのであろう。鯨を食べることは、神の摂理に反しており、牛を食べるべきであると。このような主張は、エコロジーでもなんでもない。エコロジー的観念によれば、自然にそうある存在に感謝することである(感謝して食べる)。魚は、自然の賜物として、感謝すべきである。それに対して、自然界に存在しない量の食肉(牛、豚、ブロイラー)は、原則的には食べない方がよいであろう。なぜなら、大量の摂取は、自然そのものの破壊である。食肉1キログラムを生産するためには、その十倍以上の植物を投入しなければならないからである。それに対して、野生の動物、鹿、ウサギ等を食するのは、原則的にはエコロジー的原理に適っている。もちろん、魚にしろ、野生動物にしろ、その種の絶滅をもたらすような乱獲は、問題外である。

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原爆被爆者援護法 米国の責任

原爆被爆者援護法が、海外に居住している人間に適用されるるか、否かが議論されている。しかし、この議論からは、原爆を投下した国家の責任がすっぽり抜け落ちている。なぜ、日本国政府が、原爆被爆者に対してその生活を援助しなければならないのか。それは、原爆を投下した国家の責任である。

海外居住者に対して、援助が差し伸べられるのは、当然である。問題はその費用を米国に請求すべきである。原爆被害者に対してなぜ、原爆を落とされた国家がその生活を保障しなければならないのであろうか。

朝鮮、中国に対する自虐歴史観を問題にする学者たちは、なぜ米国に対して自虐的であるのか。朝鮮、中国に対する日本は、確かに及び腰である。しかし、それ以上に米国には土下座している。

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選択的破壊 自民党をぶっ潰すのではなく、利権を森派あるいは、小泉派に譲渡すること。

小泉氏は、「自民党をぶっ潰す」と豪語した。しかし、ぶっ潰されたのは、旧田中派であり、自民党ではなかった。自民党は、今や、300議席を超える巨大政党になった。これが、自民党をぶっ壊すこととの結果である。はやく、公約どおり破壊してもらいものである。

彼が今度の選挙で主張した「官から民へ」も、すべてのことを「官から民へ」としたわけではない。民間の金融機関がこれまで主張した内容にそって公社の資産350兆円を「民」へと譲渡したにすぎない。栄えるのは、民間の金融機関のみである。彼の主張していることは、部分的に正しい「官から民へ」を、自分にとって都合のよい部分にのみ当て嵌めているにすぎない。逆にいえば、都合の悪い部分には、それを当て嵌めていない。

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共産主義と新自由主義の同一性 単一原理

世界を単一の原理によって解釈可能とする点において、共産主義者と新自由主義者(市場万能主義者)は同一の地盤に立っている。前者が生産力と生産関係の矛盾に歴史的発展を還元したのと同様に、後者は、市場原理をすべての社会的領域に展開可能と考えいる。

これは、歴史的に証明された愚行である。しかし、この愚行と言うには、あまりに残酷であろう。なぜなら、ロシアでは、ほぼ70年の時間をかけてこの愚行を実験したからである。この愚行の実験台になった人々は、たまらない。人生の大半をこの愚行につき合わされてきたからだ。おそらく、わが国もこの愚行にかなりつき合わされている。今回の総選挙もまた、その一歩であろう。願わくば、北朝鮮のようにならないことを祈るばかりである。もう、半分くらいは、踏み込んでいるのかもしれない。

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改革 新自由主義 郵政民営化

郵便貯金、簡易保険あわせて350兆円の資産を郵政公社が持っているそうである。この資産を民間で運用するのが、民営化の本質であるならば、この資産を運用できる「民」というのは、かなり限定的であろう。少なくとも、通常の民、たとえば近所の不動産屋や八百屋さんではないのは、明らかであろう。少なくとも、この資産と同等の株価総額であれば、少なくとも5%、10兆円位の資本を有する人間、法人であろう。それだけの資産を持つ人間は、限られている。その数は、世界的に考察しても、その数は限定的でしかない。これが、郵政民営化の本質である。

そのような改革を善と考える人が多い、とは奇妙である。小泉氏や前原氏の考える「民」とは、「ミン」であり、「タミ」とは異なることであろう。

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管制塔占拠 三里塚闘争 社会的承認 後期近代

1978年、成田空港管制塔が占拠された。開港を前にしたこの出来事は、日本中に衝撃を与えた。と同時に、この占拠事件に対する社会的承認が部分的ではあれ、得られていた。成田空港用地選定にあたっては、かなり問題があることが社会的に知れ渡っていたからであり、故大木よね氏に対する尊敬が、社会的にはあった。

しかし、これと同じことを現在すれば、単なるテロ、あるいは器物損壊罪の対象でしかない。おそらく、これに対する拍手、喝采はほとんどないであろう。なぜであろうか。それは、開港から30年近くたったという既成事実の集積だけではない。マスコミに対する規制強化の問題だけではない。

むしろ、時代が変化したのであろう。この後期近代という時代精神を認識することが現在重要であろう。

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地方の衰退ではなく、地域共同体の衰退

これまでのブログにおいて、地方の衰退という範疇を一つの基準として、書いてきた。しかし、正確に言えば、地方だけではなく、大都市においても同様な事態が進行している。ここにおいてもまた、地域社会という範疇は、衰退している。両者において共通していることは、もはや「地域社会」という範疇が消滅しかかっていることである。都市において、共同性は原子論的な人間の塊に解消されつつある。もちろん、そこにおいてあるのは、金銭を媒介にしたむき出しのエゴイズムでしかない。もちろん、それを共同性とみなすこともできよう。しかし、それは、「地域社会」という範疇から逸脱している。金銭を媒介にした関係性だけであれば、地理的世界のどこでもみられる現象であるからだ。

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小さき者の終焉 新自由主義と言う信仰

新自由主義の政治思想が一世を風靡している。この思想に従えば、小さきものは福祉政策の受益者として生きるしかないようである。その福祉政策も、可能な限り減少するであろう。

しかし、後期近代を一つの思想によって考察できると考えるのは、愚かであろう。初期近代から後期近代への転換のメルクマールであるマルクス主義の生成とその没落から、何も学んでいない証左である。世界を一つの原理によって解釈できるという驕りから生じる愚行でしかない。

社会はそのような単細胞から構成されているのではない。単純な原理に社会を還元すれば、その反動から予期しえないことが生じるであろう。人間理性で社会有機体を解釈できないからだ。その反動あるいはその余波は、どのようなものであるか、ここでは言及しない。

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自民党案のほうがまし、民主党郵政改革の問題点 地方破壊の推進

前原代表率いる民主党が、郵政改革の対案を提出した。それによれば、郵貯、簡易保険を廃止するようである。しかし、この二つを廃止すれば、地方の郵便局は、ほぼ全滅するであろう。あるいは、膨大な量の税金を投入するしか、ないであろう。自民党案よりも、地方衰退化を推進するであろう。自民党案に反対した多くの有権者は、地方郵便局の問題を念頭におきながら、自民党案に反対した。しかし、これでは、自民党案のほうがましである。

地方を破壊する法案に、他の民主党議員は反対しないのであろうか。

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