討論会ーー世界観
「個人が変化することによって、その世界観も変化する。この意味の、個人的な、しかし抽象化された水準における考察」に関する討論会を企画します。この討論会に関するコメントを募集します。
なお、コメント欄への投稿は、7月21日から、22日までの2日間だけです。なお、投稿しても、すぐには公開されません。公開はそれ以後になります。
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個人の恣意的自由は他者の自由を侵害しないかぎり、承認されるべきであるという思想がある。少数者の権利は多数者によって侵害されてはならない。社会を多数派の思考様式によって一元化してはならない。「清潔」な社会は、人間抑圧的である。しかし、近代社会はある原理によって社会を一元化しようとする。学問もまたそうである。市場原理によって社会を一元化しようする。共生という概念は知的障害者と健常者との共生として1950、60年代北欧で広まり、米国を経由して日本に輸入された。しかし、現実において共生はほとんど不可能になりつつある。嫌煙権運動は喫煙者と非喫煙者との共生をなぜ指向しないのであろうか。
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近代革命成立以後、現時点に至るまでの社会を近代社会と総称している。しかし、近代社会は1960-70年代を境として大きく変動する。端的に言えば、68年革命の世界的敗北をその分類のメルクマールとする。前期近代と後期近代という時代区分が必要になる。その、分別の根拠として以下のことを挙げることができる。近代革命は通常暴力革命として出現した。前期近代において暴力への一定の了解があった。しかし、後期近代において暴力への社会的承認力は無になる。この暴力革命への対応がこの前期近代と後期近代を分ける分水嶺になるが、それだけではなく、多面的な社会現象として出現してくる。
近代という枠組は不変ながらも、初期近代において想定されていない事柄が出現する。必ずしも、当該事柄が存在しなかったわけではない、たとえば、環境問題も前期近代、あるいは近代以前からに存在していた。鉱山開発は前近代からあったし、それに伴う鉱毒問題、空気の汚染、伐採過多による洪水等の問題もあった。環境問題は後期近代特有の問題として出現した。後期近代に普遍的なものとして一般に認識された。環境問題だけではなく、高齢者問題、高度医療問題、原子力問題等が出現した。このような新しく認識された問題として、生命倫理もある。初期近代において映画「この天の虹」(木下恵介監督、1958年松竹)において、八幡製鉄所からでる煙は「7色の煙」として肯定的に描かれていた。後期近代では、中華人民共和国における工場煙突として非難の対象になっている。
このような近代の一般理論において対応困難な問題が出現することが、後期近代という時代区分を必要にしている。しかし、これらの問題は必ずしもすべての国家に妥当する問題ではない。後期近代においても、このような問題が現象しない国家のほうが実は多い。後期近代という時代把握が生じるのは、西欧を中心とした高度資本主義国家においてのみである。
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哲学あるいは思想という学問が実生活において役に立たないという非難がある。しかし、あることを根源的に考えるという意味において哲学的思考、あるいは思想史的思考は役に立つこともある。もちろん、役に立たない場合も多いが・・・。
その一例として「君を幸せにする」という命題を考察してみよう。よくテレビドラマで結婚を前提にしている若い男女がこのセリフを口にする。たいていの場合、このセリフを男がしゃべることは、いわゆるフェミニズムと関連している。この問題を除外しても、以下のような問題がある。
1、他者がなぜ私の幸福に関与するのか。幸福、あるいは幸福感は個人的領域に属する。なぜ、他者である男(女でもよい)が、私の幸福に関して絶対的力を持つのか。傲慢ではないのか。
2、幸福という観念は多岐に渡る。そこでは、どのような事態が幸福であろうか。3DKの公団住宅に住むことであるのか、4畳半のアパートに住むことなのか。住宅問題を例にとっても必ずしも一義的ではない。あるいは、物質的事態だけではなく、精神的事柄とも関係する。
3、時間という観念が重要である。もし、幸福観念で両者が一致しても、いつまでであろうか。生涯に渡って?そのような数十年後の未来を予想することが可能であろうか。あるいは、今夜だけのことであろうか。そのことを両者が確かめることはない。
4、もし、この命題をテレビドラマ風に解釈したとしても、それが成就されない場合、どのような保障があるのであろうか。この約束が履行されない場合どのような対価が用意されているのであろうか。
ざっと考えてもこのような疑問が生じる。しかし、この言葉が発せさられる状況下においてどれほど人間がこのようなことを考えるであろうか。否、このようなことを考えもしないであろう。人間が理性を喪失し、感情に基づいて行動しないかぎり、第一歩を始めることはできないであろうから。人間理性は脆いものである。しかし、理性を喪失した場合のほうが良い結果をもたらすと言ってもよいかもかもしれない。保障のかぎりではないが・・・。
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タスポが未成年のたばこ購入を抑制するために導入された。この目的は誰もが反対できない。子供の喫煙を奨励することはできないからだ。しかし、この正義は別の側面を持っている。すなわち、個人商店の壊滅化である。近年、コンビニエンスストアー、スーパーマーケット等のチェーン店が個人商店の経営を圧迫している。本屋、八百屋、魚屋、煙草屋といった個人商店に関して、閉店の話はよく聞くが、開店の話などは聞いたことがない。新規参入しようとしても、巨大資本による寡占的状況を打破するだけの技術、販売技法を持った個人はほとんど存在しないからだ。
この個人商店壊滅の一端を担っているのが、タスポである。この導入によって、個人商店は風前の灯になった。PTA的正義を振りかざすことによって、個人商店の経営が悪化することは、事前に承知していたはずである。巨大資本が地方の個人商店を壊滅させる手段として、これが導入された。もちろん、これは目的ではなく、結果であるという詭弁は承知である。現在の商品戦略を担う優秀な商品市場研究者は、このような結果は事前に承知しているし、していなかったとすればそれは自分の技能の低さを表明しているにすぎない。
JTはこの事態をどのように説明するのであろうか。どれほど、このタスポ導入に反対したのであろうか。あるいは、JTからすれば、販売総数が落ちなければ問題ないーーコンビニに購入しようが、個人商店で購入しようが関係ないーーとすれば、それは自分の首を絞めることにつながるであろう。文化としての喫煙を自ら否定しているからだ。
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JTの馬鹿について昨日も書いた。今日も書く。だんだん、怒りが増幅してきた。専売公社を民営化する際、競争原理が働くという呆けた言説があった。しかし、JRにしろ、JTにしろ、競争原理は働かない。JRにしろ、競合する私鉄があるのは、ごく一部である。鉄道に限定すれば、ほぼ独占している地域はかなりある。
また、JTに関しても、国産たばこ会社が多数現れて、煙草の値段が値下がりしたのであろうか。また、政府運上金が増大され、国庫が豊かになったのであろうか。煙草の銘柄は減少して、「セブンスター」、「マイルドセブン」眷属のみが栄え、多くの特殊なーーしかし、絶対的な愛好者を誇っていた煙草が廃止された。少数の嗜好は、生産性の向上の犠牲になった。
せめても救いは、JT子会社は毒入り餃子を販売したが、JTはまだ毒入り煙草を販売していないことであるが・・・。
税金の関係で個人輸入の全面的自由化は、煙草の場合不可能であろう。しかし、考慮される時期にきているのかもしれない。
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JT日本たばこ産業(以下、JT)への逆風が吹いている。JT子会社の毒入り餃子販売事件では、親会社への避難も大きい。また、嫌煙権の確立により、煙草そのものへの批判もある。もっとも、本ブログは、煙草が個人の嗜好の問題であり、その公共的規制そのものに反対している。
しかし、JTは煙草の嗜好性を破壊する愚策を強行している。個人の嗜好を一元化しようとしている。2007年度において多くの銘柄の廃止が決定された。「ミニスター」等の個性的な煙草を廃止した。これらの煙草は他のたばこでは代替が非常に困難である。たとえば、「ミニスター」は一箱30本入りという個性的な煙草であった。1本は短く、かつ細い。1本の煙草の吸う時間が短い多忙な労働者に愛されてきた。この煙草愛用者は、最近の10数年間1本当たりの税金が上げられ、一箱あたりの価格が390円という高価格になったにもかかわらず、その拘りを継続してきた。20数年前には、ほぼセブンスターと同価格であったにもかかわらず、税金支払いの増大にしぶしぶ応じてきた。
このような一部で支持されてきた煙草を廃止することは、少数者の権利を侵害することにつながる。事実上、国産たばこはJTが独占的に販売しているからだ。JT以外の国産たばこ製造製造会社はないからだ。独占企業であるかぎり、競争はない。「ミニスター」と同様な仕様のたばこは現在販売されていない。
JTは煙草という少数者に愛される商品を提供している。しかし、その煙草愛用者のなかでの少数者には配慮しないという特性を持っている。特殊な煙草愛用者という少数者の欲望を切り捨てながら、喫煙者という少数者の権利を主張することは、滑稽である。
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旧国鉄が分割民営化されて20年の歳月が流れた。この民営化の是非については国労問題等を除けば、ほぼ社会的に承認されている。もはや国鉄復活という議論は少なくとも論壇に現れることはないであろう。建前的には、分割民営化によって競争原理が働き、サービスが向上したからである。この競争原理が働くという意味は、主として二つの異なる意味がある。それはJR各社間の競争と、JRと競合する他の交通手段との競争である。ここでは、新幹線に限定してその意味を考えてみよう。
JR東海は主として東京と大阪を結ぶ路線が主要収益源である。関西の空港が、ほぼ和歌山県に近い関空のみであれば、東京―大阪間の交通をほぼ独占できたかもしれないが、この路線は大阪都心に隣接しているから伊丹空港が残存しているため、常に飛行機と競争しなければならない。
それに対して、東京と仙台間の交通はJR東日本がほぼ独占可能である。この路線では競争原理がほとんど機能していない。
競争がほとんどない路線では、どのような独善的サービスを提供しようとも営業収益に影響しない。禁煙という問題からその意味を考えてみよう。両者はともに禁煙を標榜している。しかし、JR東海は禁煙を標榜しながら、喫煙車両を残存させている。3号車と15号車が喫煙自由な車両である。また、のぞみ号には喫煙空間がある。禁煙といいつつも分煙である。そして、3号車がほぼ満席に近い状態であることと対照的に、2号車は空席が半ば以上を占めていた(日中のこだま号)。
それに対して、JR東日本はすべての車両が禁煙であり、喫煙可能な車両はない。独善的かつ一元的な禁煙である。このような馬鹿げた思想を実践しても、営利企業であるかぎり問題はない。しかし、この企業は移動の自由を保障する公益企業という性格を持っている。公益、つまり喫煙者の自由にも若干の配慮を必要とするはずである。しかし、競争原理が働かない場合には、独善的にふるまっても営利性を侵害することはない。その例がJR東日本の全車禁煙である。少しは喫煙者の自由も考慮すべきであろう。
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喫煙の権利を保障することにおいて問題になるのは、幸福追求権に属する喫煙権と所謂嫌煙権の両立性に関する事象であろう。まず、前者に関して、憲法13条は国民の幸福追求権を認めている。この権利は、基本的人権の一つであると承認されている。喫煙という行為がこの幸福追求権に属することは判例で認められている(最高裁昭和45年9月16日大法廷)。この判決は被拘禁者の喫煙の権利に関する判例であるが、被拘禁者の人権を制限することの妥当性を主張している。国民の権利の一つあるとしても、被拘禁者の人権を制限することの正当性を主張している。
逆に言えば、被拘禁者を除く成年の国民の権利として認められている。国民が労働者として規定された場合でも、この権利を保持していると考えられている。
次に、所謂嫌煙権は1970年以降、新しい人権の一つとして社会的に承認されている。受動喫煙という概念が社会的に承認されてきたからでる。その法的表現として健康増進法25条がある。分煙が明確に規定されている。しかし、分煙が困難である場所において、禁煙が施行されている。飛行機等ではほぼ全面的に禁煙化されている。健康増進法の分煙が技術的観点から困難であるからだ。しかし、この禁煙という概念は法的なものではなく、ただ社会的なものでしかない。
次世代新幹線(JR東海)では禁煙が唱導されているが、喫煙部屋も残存している。全面禁煙という思想と限定された空間としての喫煙場所は、理念上両立しうる。
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労働しない若者、中年、壮年、そして老人が増えている。そのうち労働しない若者が「ニート」と呼ばれている。この意味は単なる若者の怠惰性を表現しているわけではない。後期近代において、労働が社会的尊敬を受けなくなったことと関連している。労働するよりも、公営賭博、株式市場等における投機的行為や親族の遺産で暮らすほうが社会的により承認をうけることと関連している。汗水垂らして労働するよりも、財テク等によって稼ぐほうがより社会的に尊敬されることになった。
一方で、後期近代において労働におけるサービス産業の役割が拡大したことによって、サービス産業に従事する労働者の割合が増大した。かつてのこの産業従事者に比較して現在の労働者の賃金はかなり下落している。とりわけ、巨大サービス産業、たとえば巨大スーバーマーケット、巨大ファーストフード店において、一部の管理職を除き現場でサービスに従事する労働者の賃金の下落は著しい。
このような現代社会において、労働をすることは恥という意識が生じることもやむをえない。ある壮年男性が数十年まえに体験したことをここで披露してみよう。それは、彼があるガソリンスタンド労働者として働いている時の体験である。ガソリンスタンド労働者はガソリンを車に入れるだけではない。煙草の灰皿を代え、フロントガラスを拭かねばならない。客に対して愛想をふるまわねばならない。そこで働いている時、トヨタクラウンの最高級車に乗車した彼の同級生がガソリンを入れるためにそのスタンドに入ってきた。当然、彼はその同級生に対して、対等な口を聞く。「よ、元気!」それに対して対等な口をこの労働者がきけるはずもない。
この同級生はいまどきの言葉を使用すれば、ニートであった。父親の車を乗り回していた。しかも、その車は日本の最高級車であり、助手席には今風の彼女が同乗していた。しかし、この労働者は、このニートに対して、卑屈な感情をもったのも事実であった。客観的に言えば、淡々と労働をするだけでよかった。しかし、この青年はそのボンクラに対して劣等感をもったのも事実であった。逆に言えば、今日のニート君もまた、労働者にその種の優越感をもっているのも事実であろう。
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12月、16,17,18日の記事に関するコメントに対して感謝します。これ以後は受けつけられません。ご了承のほどお願いします。なお、「3丁目の夕日」に関するコメントは削除されています。この映画に関するコメントは昨年で締め切っています。
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12月16、17、18日の記事に関するコメントは,1月12日(土)のみ受けつけます。それ以前も、それ以後も削除されます。当日のみです。ブログ上の公開は、連休中におこないます。
それ以外の記事に関するコメントは今週中は受け付けられません。技術的理由からです。とりわけ、「3丁目の夕日」に対するコメントも昨年締め切っています。投稿しても削除されます。
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12月16、17、18日の記事に関するコメントは現在受け付けられていません。この3つの記事に関するコメントは現在削除されます。今少しお待ちください。1月8日以降、指示します。
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裁判員制度
本邦において、司法過程に対して市民が参加するという制度が法的に要請されている。この論拠に対する基礎づけの方向は多様である。
この問題は、初期近代において広義の政治参加、市民参加のコンテキストにおいて把握してみよう。行政機構としての司法過程に対する市民参加という観点から、この問題を考察してみよう。市民参加が善であり、参加する市民の理性性が前提にされている。はたして、参加する市民は理性的判断を下すことが理念上求められている。市民の理性が何らかの留保なくして前提にされていた初期近代の議論に基づいている。
しかし、後期近代においてこの権利としての司法過程は、義務に転化する。この意味に対する討論を期待する。できれば、2,000字ほどの討論論稿を期待している。投稿期日等に関する詳細についてはのちに提示する。来月中旬を考えている。
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福祉の充実が叫ばれている。しかし、福祉の充実はその負の副作用を持っている。たとえば、生活保護費の削減が叫ばれてる。しかし、生活保護費が最低賃金よりも豊かである場合、労働意欲の減退につながるであろう。仮に、生活保護費が月30万円を越えれば、労働者の負担は大きくなるであろう。この点に関するコメントを募集する。募集する日時はのちに記述するが、1月中旬を考えている。
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地方自治 8 企画部と全体知
1.
著名な映画『生きる』(黒澤明監督、志村喬主演)においても、公園にブランコを作るという市民のささやか願いと自治体における部局の独立性の矛盾が描かれている。市民がその願いを持って市役所を訪れたとき、それぞれの部局の窓口はその願いを他の部局に回し、自分の部局では取上げようとしない。所謂、盥回しである。志村喬もまた、その部局における定年間近の末端の管理職であった。彼は自分に命令された事柄以外のことを進んでやろうとはしない。新たな仕事は別の部局に回す。他の部局も同様である。ところが、自己が末期癌に侵されていることを自覚したとき、この老管理職は、それぞれの部局を調整しながら歩く。公園にブランコを作るために。映画では公園に作られたブランコに乗りながら、生命の最期を迎える。「命短し、恋せ、乙女よ」という歌を口ずさみながら。
2.
このような老管理職の役割、部局の独立性を打破して、総合的観点からある政策を実行するための機関として、地方自治体において企画部、あるいは企画調整部という部局が、前世紀後半から出現してきた。それは、中央政府における内閣府の存立意義と相似している。それが形成された理由は、中央政府だけではなく、自治体においても各部局が独立してその利益を主張することにある。省益に対応する部局の利害が貫徹している。この独立性を廃して、重要な政策を実現するための機関として、企画部が創設された。
ここでの問題点は、何がその自治体における最重要事項なのかを判断することが可能か否かである。近代社会思想史において、否定された全体知が要請されている。果たして、そのことは可能であろうか。この問題が企画部の存在様式において問われているのであろう。
3.
本ブログでは、読者が企画部長になったら、という設定のもとでコメントを募集します。コメント送信は特定の日のみになります。時期は1月上旬を設定しています。詳細はのちに記述します。
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3丁目の夕日に関するコメントは締め切っております。締切前に送信したという確実性がないかぎり、公開できません。ご了承のほど、お願いします。送られてきたものは、削除します。
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この映画に対する多数のコメントをいただきました。感謝します。若干の個人情報(本名、職場名等)は削除してあります。ご了承のほどお願いします。本日をもって、このコメント欄への投稿を締め切ります(本日分までは有効です)。これ以後の投稿はご遠慮ください。
ところで、家族を含めて共同体における個人化、つまり共同性の希薄化が進行しています。それが、後期近代という時代でしょう。この時代における共同性は、著しく機能主義化を進展させます。そして、ノスタルジーではなく、今どのような共同性を構築できるのか、それを考えています。家族ですら、解体までの練習期間でしかありません。
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11月3日のブログ「3丁目の夕日」に関して、コメントを募集しています。この募集は11月30日です。
但し、このコメントは12月初旬に一斉に公開されます。それまでは、ブログに反映されません。安心して「3丁目の夕日」コメント欄にコメントを送信してください。
なお、コメントは500字以上700字未満でお願いします。
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社会国家の間接性と直接性
社会国家の国民に対する作用形式は、以下の二つに大別される。両者の関係が直接的であるか、間接的であるかである。直接的である関係は明瞭である。何からの困窮状態にある国民が直接的に社会国家から援助を受ける。それに対して、間接的関係は多様である。ここでは、カール・ナウヴェルクの議論を紹介しよう。「ナウヴェルクは労働者個々人の最低限度の生活を直接的に保障しようとしたのではなく、近代における自由競争原理と、結果としての不平等の必然性について洞察していた。したがって、国家および地方自治体が直接的に個人の生計それ自体を援助すべきであると考えられていたのではない。労働者の自立的組織がその媒介項として設定されていた。つまり、「国家が失業者、つまり非自発的失業者を救済する義務を可能なかぎり負う場合・・・国家はまず何をすべきであろうか。国家は個々の非自発的失業者に対して一片の仕事を与えるのではない。むしろ、国家は全労働者の大きな自立的組織の保護者および推進者とみなされることによって、すなわち労働者相互保障の金庫の設立を促進することによって、その労働者全体の自立的組織つまり連帯組織全体に対して配慮を与える」。国家が国民の最低限度の生活を保障する手段は、労働者個人に対する救済ではなく、むしろ労働者によって自主的に結成された自立的組織という媒介を前提にしている」。(本書134頁)
その援助は直接的ではなく、労働者が形成した自律的組織を媒介にしている。国民自身が形成した自助組織が主導的役割を果たす。個別的な国民に対するものではなく、集合的国民に対する援助が中心になっている。さらに、援助が受動的なものではなく、積極的になる。国民自身がその媒介組織を形成している。
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