会議ーー言葉尻
このごろ大学の会議に参加することがおおいのですが、ここで議論していることは、、言葉尻をとらえることに終始しています。国会論戦も同じですが、全体的利益を指向して、共同的に議論をまとめよとする態度は、ほとんど皆無です。その背景には、担当者が数年が変わることが前提です。その期間を無難に過ごすことのみが重要視され、全体的利益を考慮する人間は嫌われるようです。とほほ。
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このごろ大学の会議に参加することがおおいのですが、ここで議論していることは、、言葉尻をとらえることに終始しています。国会論戦も同じですが、全体的利益を指向して、共同的に議論をまとめよとする態度は、ほとんど皆無です。その背景には、担当者が数年が変わることが前提です。その期間を無難に過ごすことのみが重要視され、全体的利益を考慮する人間は嫌われるようです。とほほ。
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多くの公共機関において禁煙という思想が強制されている。この事態を倫理あるいは倫理学から考えてみたい。禁煙という思想を持つことは、個人の思想信条の自由として承認されている。それは、禁酒あるいは禁性交を特定の個人が生活信条とすることは、社会的に承認されているのと同様である。その思想自体をここで批判しようとするのではない。
しかし、問題はその個人的思想を他者に強制して恥じない倫理性の欠如である。自らの生活信条を他者に強制して恥じない他者性の欠如である。どのように優れた生活信条であれ、それを他者に強制することは、内面の自由を侵害することになる。近代国家はどのような思想であれ、それを他者に強制することを禁じている。もちろん、日本国家も近代国家の範疇に入ることは当然であり、憲法等でこのことは明記されている。このような事態に対して、多くの倫理学者がなぜ沈黙を守っているのか。不思議である。
また、煙草そのものが、財務大臣を大株主とする日本たばこ産業株式会社によって販売されている商品である。その商品を買うことを規制することは、どのような法律に基づいて禁止されているのであろうか。言わば、政府によって販売されている商品に対する不買運動は、どのような名分で実施されるのであろうか。石油排気ガスを他者に吸引させながら、喫煙による悪を弾劾する思想的根拠はどこにあるのであろうか。
今日の健康問題、ひいては環境問題にとって重要なことは、二酸化炭素の排出量に対する抑制である。喫煙によってオゾン層が破壊されるのであろうか。もちろん、喫煙によって二酸化炭素も排出される。しかし、自家用車の使用による二酸化炭素排出量と比べれば、微々たるものであろう。禁煙という思想は、近代の近視眼的一元的思考の最たるものである。
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拙著『近代の揚棄と社会国家』(萌文社、2005年)が問題にしたことは、世界そのものが変転することである。にもかかわらず、近代社会は世界の把握を目指し、世界をある一元的原理へのと還元しようとする。この原理として、市場社会、資本主義社会(あるいはその揚棄態としての社会主義)を容易にうかべることができる。
近代社会は世界観だけではなく、人間観も一元化しようとする。現実態において人間は変転するにもかかわらず、その一元的把握を指向する。自己そのもの、あるいは人間関係が、変転しない自己という幻想に陥る。
「君子豹変」という単語を例に取ろう。この言葉は、人間が変化することが、善であるという前近代、おそらく古代中国に由来する思考であろう。しかし、近代においてこの熟語は、悪であるとみなされる。「麻生首相の豹変」という批判は、原理原則なく思想の廃棄を意味している。2009年に給付された定額給付金を例にとれば、彼はこの給付金を受領することを、その当初さもしいとみなしていたが、のちに喜んでこれを受領すると言いだした。これに対する非難が、「豹変」という言葉によってなされた。果たして、流転する自己は悪いことであろうか。もっとも、麻生氏を「君子」とみなすことには抵抗があるが・・・。
人間自身の把握の一元化は、世界の一元化に対応している。変転する自己にもかかわらず、自己の本質、本当の自己、自分探しが流行している。あるいは、前世における自己を幻想的に取り出し、前世と現生、あるいは現時点の自己とを統一的に把握しようとする。前世は永遠の真理とみなされ、幻想において固定化される。
しかし、そのような固定化された自己の本質などはどこにも存在しない。そのような幻想を信じることは馬鹿の典型であろう。
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デカルトの思想の一部を要約してみよう。大陸合理論において生得観念が認められていることによって、人間は理性的存在として規定されている。人間は神によって創造された、生来の理性的存在者であり、万人が理性的存在者である。平等かつ同質的人間像が構成され、理性的人間が自己自身に基づいて真理に到達可能である。複雑な世界が単純な原理に還元されることによって、この真理に万人が接近可能である。平等的世界像が成立し、政治的領域における一人一票制が成立する。身分制的原理において、身分が上昇すればするほど、理性をより多く持ち、身分が低いほど、理性をより少なく持つ。支配あるいは政治的なものに従事する身分と、そこから除外された身分が明確に区別されている。後期の身分制社会において、その原理を根本的に否定する近代的論理が現れる。
この点はロックのタブラ・ラサの理論と同様な平等主義人間像を描いている。それは通説のように、相対立する議論ではなく、初期近代特有の思想である。
彼のこの思想には幾何学的世界像が背景にある。幾何学は単純な概念から複雑な概念へと上昇可能である。点と線という単純な概念から構成される。この単純な原理は万人によって認識可能であり、人間が理性的存在であるかぎり、この単純な原理を認識可能である。
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呉智英が「馬鹿撲滅運動」を提唱していた。しかし、この運動にもかかわらず、馬鹿は繁殖している。近代社会が根本的に揚棄されないかぎり、それは無理であろうし、近代の揚棄も可能とは思われない。
このごろ、馬鹿は自覚的に馬鹿を装い、自己の隠された利益を追求しているように思える。馬鹿のふりをして、正確には局所的正義を主張しながら、隠された別の自己の物質的正義を追究しているように思えてならない。もちろん、その局所的正義に追随しているのは、本当の馬鹿であるが・・・・。
馬鹿を相手にするのは疲れる。しかし、繁殖した馬鹿を相手にしなければ、仕事にならないのもまた事実であろう。どのようにすれば、この円環構造から逃れられるのか、思案している。
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専門馬鹿という言葉が数十年前、つまり初期近代から後期近代への移行期において流行した。それは、主として社会反乱が学生層、青年層を中心としていたがゆえに、批判の矛先は支配階級だけではなく、大学教授に向かっていた。この批判は、大学教授の性格づけとしてはほぼ妥当している。多くの教授が専門家であろうとすれば、一般教養は放棄せざるを得ないからだ。専門家として成功しながら、一般教養においても秀でている教授はまれであったし、現在もまれである。多くは偏狭であり、偏屈である。しかし、この言葉は教授に対する称賛の言葉でもある。専門的知識人である証拠だからだ。そして、教授が少なくとも大学から出ないかぎり、社会的な害悪をもたらすことはほとんどない。
しかし、この専門馬鹿が、官僚機構に属するすべての人にあてはまるならば、問題は国民生活全般に係わってくる。法律、条例を実質的に作成し、その運用にあたる人間が、専門馬鹿であれば、その社会は死滅する。官僚、役人がすべてその自己の狭い仕事範囲の事柄しか熟知せず、全体的利益を考慮しないで政策決定をなし、それを運用するかぎり、社会が崩壊する。現在、民主党、そして自民党も官僚政治打倒と叫んでいるのは、官僚の狭い視野では、全体的利益が考慮されないからだ。もちろん、政治家にその能力があるか否かは疑問であるが・・・・。
問題はこの専門馬鹿であればあるほど出世という機制が官僚機構に存在していることである。与えられた仕事以外の観点、あるいは自己の所属する部署への不利益を考慮する役人がいたとしよう。彼は上司から排除され、同僚からいじめられるであろう。まず、出世はあきらめたほうがよさそうであろう。
たとえば、「高速道路1000円均一」という政策を見てみよう。それによって、高速道路を利用した需要が喚起されるという側面がある。しかし、高速道路へと交通がシフトすることによって、公共交通はますます衰退する。とりわけ、廃止が常に議論の対象になっている地方鉄道、地方海上輸送は壊滅的な打撃をうけるであろう。もちろん、高速道路無料化という政策は、それらに壊滅的打撃を与えるだけではなく、息の音をとめることになろう。この政策を国土交通省大臣が推進することによって、公共交通という社会的基盤を破壊している。彼らが考察の対象にしているのは、高速道路だけでしかない。それだけから考察するえば「理性的」な政策判断であろう。しかし、地方公共交通の破壊という観点、あるいは地方破壊という観点からすれば、別の視角が必要であった。
もちろん、官僚が地方破壊を目的にしているのであれば、また別の文脈が必要である。官僚機構の上層部は必ずしも専門馬鹿でないからだ。しかし、この真の目的が公共的議論領域に現象することは、少なくとも近未来的には無理であろう。
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以下の駄文は、ある講義の補足資料として作成したものである。
哲学あるいは思想という学問が実生活において役に立たないという非難がある。しかし、あることを根源的に考えるという意味において哲学的思考、あるいは思想史的思考は役に立つこともある。もちろん、役に立たない場合も多いが・・・。
その一例として「君を幸せにする」という命題を考察してみよう。よくテレビドラマで結婚を前提にしている若い男女がこのセリフを口にする。たいていの場合、このセリフを男がしゃべる。これは、今はやりのフェミニズムと関連しているが、この問題を除外しても、以下のような問題がある。(もっとも、あまりこのセリフをフェミニストがテレビ局に抗議したという話もきかないが・・・・。抗議などしなことが当然であるが・・・)。
第一に、他者がなぜ私の幸福に関与するのか。幸福、あるいは幸福感は個人的領域に属する。なぜ、他者である男(女でもよい)が、私の幸福に関して絶対的力を持つのか。傲慢ではないのか。不可能なことを他者に約束している。
第二に、幸福という観念は多岐に渡る。そこでは、どのような事態が幸福であろうか。住宅問題を例にとっても必ずしも一義的ではない。3DKの公団住宅に住むことであるのか、4畳半のアパートに住むことなのか。あるいは、幸福概念は物質的事態だけではなく、精神的事柄とも関係する。この問題は広範な領域と関連しており、本人ですら自覚していない。
第三に、時間という観念が重要である。もし、幸福観念で両者が一致しても、いつまでであろうか。生涯に渡って?そのような数十年後の未来を予想することが可能であろうか。その間に両者の関係だけをとっても変化し、環境世界の変容は予想すらできない。あるいは、今夜だけのことであろうか。そのことを両者が確かめることはない。
第四に、ここでは「君」の全体像を把握していることが前提になっている。本人にも分からないことが、なぜ他者に了解可能であろうか。ある事柄の全体を把握することは哲学的には不可能とされている。世界の概念的把握ができないのと同様に、個人の把握もできない。
第五に、もし、この命題をテレビドラマ風に解釈したとしても、それが成就されない場合、どのような保障があるのであろうか。この約束が履行されない場合どのような対価が用意されているのであろうか。この命題にどれほど責任倫理が付随するのであろうか。後になって、「私の人生を返して」と相手に訴えても、時間的過去をとりもどすことはできない。
ざっと考えてもこのような疑問が生じる。しかし、この言葉が発せさられる状況下においてどれほど人間がこのようなことを考えるであろうか。否、このようなことを考えもしないであろう。人間が理性を喪失し、感情に基づいて行動しないかぎり、第一歩を始めることはできないであろうから。人間理性は脆いものである。しかし、このようなことを考える人間は必要であろう。また、人間はそのようにしか行為不可能である。
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公務員組織、大企業、大組合等の大組織が陥るのが、前例主義 横並び主義 新しい仕事をしない主義という病気である。
1、「前例主義」とは、前例のないことをするな、という意識である。前例を否定することは、前任者の瑕疵をあげつらうことになるからである。前任者の欠陥を是正することは、その顔をつぶすことにつながるからである。その前任者は現在の上司であることが多い。上司の意向に反して仕事をすることが嫌われる。
2、「横並び主義」とは、他の部署、他の組織が実施していない仕事をしないことである。民間企業であれば、他の企業がしないこと、たとえば画期的な新製品を提案することは、表彰される。しかし、停滞している組織において、そのようなことをすることは危険があるとの理由で却下される。もちろん、新企画は失敗する可能性もある。しかし、そのようなリスクが、ほとんどない場合が大半であっても、ごくわずかの可能性を見つけてその新企画をつぶすことが快感になっている場合が多い。
3、「新しい仕事をしない主義」とは、組織の当該部署に割り振られた仕事が多いことに由来する。新しい仕事をしても、古い仕事が減るわけではない。自分の仕事が増えるだけである。活気のある組織では、自分で新しい仕事を見つけることが本来のしごとである。与えられた仕事だけをしている人間は、使えない人間とみなされる。
前例主義 横並び主義 新しい仕事をしない主義という「公務員組織、大企業、大組合等の大組織」の病理は、そこで仕事をする人間をスポイルする。やがて、自分の部署だけ良ければよいという病気が社会全体に蔓延するとき、社会が壊死する。しかし、このような「前例主義」、「横並び主義」、「新しい仕事をしない主義」を組織から追放でべきである。少なくとも、新企画を破壊することの原理として禁止すべきである。
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整備新幹線、北海道新幹線、新函館駅建設予定地、渡島大野駅に降りてみました。駅のトイレがポッタン式でした。下水道がどのようになっているのか、心配になりました。駅周辺は平野部で雪も深く、函館市街地に比べると2,3度低く感じました。雪もまだ5-10センチほど積もっていました。市街地では、現在、雪はありません。
田畑を道路にして、近郊は商業施設がもっと乱立するのでしょう。日本は農地を破壊することに躊躇ありません。食料自給率が低下するのも当然でしょう。道路を再農地化するのはほとんど無理でしょう。
また、駅周辺の区画整理で多くの人が転居を余儀なくされます。もし、在来線函館駅を新幹線新駅にするのであれば、それほど問題にはならなかったはずですが・・・・。もちろん、高架線路を建設する費用は、農地を破壊するほうが安価でしょう。国土交通省はその点をどのように考えていたのでしょうか。
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整備新幹線の建設によって在来線がJR各社から経営分離される。しかし、その新駅が在来線の旧市街地から極端に遠い場合、そのアクセスの中心は、鉄道ではなく、道路網が中心になっている。在来線の使用はその主要なものではなくなっている。なぜ、鉄道で地方都市にくる人間を、鉄道によって旧市街地に輸送するのではなく、自家用車、バス等によって輸送しようとしているのか。なぜ、高規格道路、高速道路が整備されるのか。この整備された道路にそって、多くの商業施設が建設されるにもかかわらず、この政策を各地方自治体は推進している。
新幹線新駅建設によって、旧市街を破壊すること目的にしているとしか考えられない。新幹線によって運ばれてくるのは、貨物ではなく、人員でしかない。もちろん、小さな貨物は運搬可能であろうが、貨物コンテナ1、000個を運搬しようとしているのではない。
旧市街地では伝統ある百貨店の廃業が話題になっている。その原因の一つは、高規格道路の建設による市街地の拡散である。端的に言えば、行政によって、旧市街地の衰亡、百貨店の廃業が促進されている。にもかかわらず、行政がその存続のための署名運動の先頭に立ち、市街地の「活性化」を唱えているのは滑稽を通り越し、馬鹿げたことである。マッチポンプと言われても仕方がない。
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本ブログにおいて、無限の可能性を自己に投影することの無意味さを常に考えてきた。自己の芸術的才能を信じるニート、あるいは研究者を目指す元大学院生が、無限の時間を前提にしていることを常に指摘してきた。
しかし、本記事ではその逆も指摘しておこう。つまり、つまり限定された時間と能力においてもその中ではかなりの可能性が残されていることがあるからだ。それに気づかない場合も多い。
ここでは大麻を例にしてみよう。人間社会は多くの嗜好品を伝統的に許容してきた。大麻に至る段階において、珈琲、酒、煙草等過剰摂取すれば問題になるが、過剰に摂取しない限りそれほど問題にはならない嗜好品を提供してきた。
それはそれ自身を肯定してきたと同時に、社会の存立を危険に陥れる対象から分離させることを目的にしてきた。大麻、覚醒剤等の嗜好品が人間の健康だけではなく、社会そのものを破壊する要素があるからだ。煙草を吸って、刃物を持ち、殺人を犯す危険性は極端に少ない。もちろん、酒を飲み、刃物を持ち出す可能性は煙草よりも多いが、覚醒剤はその比ではない。
社会は大麻に至るまでに多くの段階における嗜好品を準備している。この段階を無視して、大麻に至る馬鹿が多い。おそらく、国内における大麻使用率は摘発されている以上であろう。未成年の場合、その報道は抑制される傾向にあるからだ。
大麻に至るまでに、酒を飲み、煙草を吸うべきだ。紙煙草で満足できなければ、葉巻を吸えばよい。嗜好品を大麻に限定するような馬鹿なことは慎むべきであろう。大麻に至るまでにその段階を踏まえるべきであろう。
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このごろ枝葉末節の事柄が本質である、とみなす人が多くなっている。事務労働者の世界でも、「フォントの大きさ、罫線の太さが違う」と批判して、得意になっている人が多くなっている。現に義務教育の教育労働者の世界では、「字の大きさやフォントなどを何度も書き直させる」(「先生、生徒指導は今」『毎日新聞』2009年1月28日、第2面)ことが一般化しているようだ。逆に言えば、このような事務処理能力に長けた人間が、良い教員、能力の高い公務員とされるのであろう。このような能力は、以前には村役場の庶務掛長にのみ必要とされる能力であり、高級官僚、大学教員、況や政治家に求める能力とは異質であった。
このような転倒が一般的になり、本質的議論は等閑視されている。議論が単純化され、矮小化されればされるほど、本質は失われてゆくであろう。確かにそのような指摘は正しい。しかし、フォントが統一され、誤字脱字のないことは、それが本質的に正しいか、どうかということと全く無関係であろう。漢字が読めなくても、読めてもどうでもよい。フォントが少しヘンでも、内容が理解できればそれでよいのではないか。
このごろ麻生総理の漢字能力に対する批判が、その政治的能力と同一視されるという馬鹿げた議論が横行している。彼の政治能力と文章能力とは別のものであろう。もし、批判すべきであれば、その政治思想であり、漢字能力ではないであろう。
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大学教員の世界において現在、「地域貢献」が叫ばれている。しかし、地域貢献が社会貢献、せいぜい日本社会の水準で考察されるかぎり、それは正当なものかもしれない。御用学者は別として、中央政府の審議会委員になることによって、その学問的見地から有益な情報をえることもあるからだ。
しかし、地方政治に関与することは、その学問的成果を十全に還元できるのであろうか。地方自治を専攻している学者を除外すれば、疑わしいものになろう。統計学、確率論を学んだ学者からすれば、現実の身近な政策決定過程に参加することはその学問的良心からすれば、痛ましい結果になろう。現実の政策決定過程はそのような学問的成果を無視して、たとえば他の市町村がやっているからという横並び意識から決定される場合も多い。そこでは彼が生涯を賭けて学んできた確率論、統計学の基礎知識すら無視される。確率論からすれば、明らかに破滅へと進むことがほぼ確実にもかかわらず、その政策へと関与しなければならない。
その審議会でどのように正論を吐こうとも、ミクロ的合理性にしか興味のない人間にとって、彼の統計学の基礎知識は余計である。ミクロ的合理性追求の学者にとって、専門外の統計学の議論は、他の素人同様に余計なものである。あるいは、前例第一主義の人間にとって、彼の統計理論はわからないはずである。耳を傾けようともしない。彼の発言の前に、根回しはすでに終了しているからだ。
抽象的、歴史的水準を別にして、具体的水準において政策決定過程に学者が動員されることは慎まねばならない。もっとも象牙の塔などはどこにもない。帰るべき場所は、研究対象への没頭することだけかもしれない。
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本邦では路面電車、電車等は首都圏、名古屋圏、関西圏を除けば、悲観的にならざるえません。たとえば、ガソリンが、リッター500円をこえれば、自家用車の使用はかなり限定されざるをえません。鉄道等のない地域社会の衰退、まさに地方の衰退が加速されるでしょう。
本ブログで再三再四述べたように、「一元的思考--たとえば、交通整備とは道路整備に限定される」は、おそらく破綻するでしょう。このような短絡的、近視眼的思考は近代の宿命的要素でもありますが、やはり批難されるべきでしょう。
ミクロ的合理性とマクロ的非合理性、端的に言えば、マクロ的馬鹿が共存しているのが近代かもしれません。ミクロ的合理性を追求するという学問的存在形式は、現実世界を歪なものにします。とりわけ、似非学者、御用学者の横行がそれを追認しています。
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本記事に対して多数のコメントをいただきました。コメントは以後受け付けません。多くのコメント提供者に感謝します。多くの国に路面電車、電車が走っており、公共交通の重要性が世界的に認識されていることを再確認しました。ありがとうございました。
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エアフルトはドイツ連邦共和国チュウリンゲン州の首都である。この州はドイツ中部に位置しており、旧ドイツ民主共和国に属していた。ドイツの地政学上の中心的都市である。この州には、ゲラ等の工業地帯と同時に、ヴァイマール等の歴史的に重要な都市を含んでいる。この事実がこの州、そしてエアフルトの街の存立構造を規定することになる。
まず、工業化と町の存立構造との関連性から考察しみよう。この地域では、19世紀中葉から工業化が始まり、その後の国家社会主義、社会主義時代を通じてその形態は変化しなかった。そこでは、20世紀中葉以降において環境問題に配慮しない工業化が推し進められ、前世紀末、つまり社会主義政権末期においてその問題は大きな国内問題になった。多くの子供が疎開に似た形で工業地域から排除され、市民は大きなマスクをして工場へと向かった。社会主義政権に対する非難は様々な視角から可能であるが、生産主義に陥り、環境問題への配慮が少なかったこともその原因の一つであろう。首都東ベルリンは清潔で、かつ物資の供給も豊富であったが、地方、とりわけ戦前からの工業地帯における環境破壊は誰の目にも明らかであった。
次に、歴史性に言及してみよう。この州にはエアフルト、ヴァイマール、イエナ等ドイツの近代史に登場する歴史的伝統を有している都市が多数ある。これらの都市は工業都市だけではなく、有数の観光都市であり、かつ大学都市でもある。環境問題には敏感である。
この二つの要素がエアフルトの交通政策にも反映される。とりわけ、興味深いことは、町の中心部の旧市街において、自家用車の進入が制限されていることである。もちろん、貨物搬入用車両、緊急車両等の特別な許可を持つ車両は別であるが、一般車両は原則的に市街地から排除されている。しかし、都市住民、観光客にとって不便はほとんど感じない。多くの駐車場が市街地周辺に準備されており、かつ路面電車が縦横に走っているからだ。しかも、写真からからも分かるように大型車両による4両編成が珍しくない。ガソリンの排気ガスを吸引する危険から都市住民と観光客が免れているからだ。彼らは、路面電車と徒歩によって市街地散策が可能になっている。
http://de.wikipedia.org/wiki/Erfurt
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現在、煙草に対する課税強化が叫ばれている。もちろん、自民党の良識派がそれを阻止したが、民主党政権ではその良識も怪しくなりそうである。かつて池田首相は、貧乏人は米を食うな、麦を食べろと言ったそうである。その時の良識あるマス・メディアは、池田首相を弾劾したはずである。しかし、今日のマス・メディアは煙草増税に対して概ね好意的である。この数十年間にマス・メディアが変質したことは、ここにも現われている。
もし、煙草が500円であろうと、1,000円であろうと、年収2、000万円を超えている富裕層には、問題は全くない。現在議論されている、定額給付金を受領しない「矜持」を保持できる階層である。彼らは、1日、1箱吸うとして、1日1、000円、月に均すと30、000円程の問題は、ほとんど意に介さない。煙草が1日、1、000円で困るのは、年収200万円以下の階層である。彼らにとって、そもそも1日の昼食代を含めた小遣いが1、000円程度、あるいはそれ以下であろうと推定される。彼にとって、煙草1日、1、000円というのは、煙草を吸うなというに等しい。日当80,000円の人間は、日当8,000円弱の人間の営みにはほとんど関心がないかのようである。
しかも、煙草増税議論の政策過程には、年収200万円の人間はそもそも参加できない。審議会委員の年収は、少なく見積もっても、2、000万円以上の人間が多数を占めるはずである。大病院の管理職等の有識者、マス・メディアの論説委員、政治家、厚生労働省の局長級の委員たちの平均年収は、軽く2、000万を超えている。彼らは、現場の派遣労働者が休憩時間に煙草を吸うことすら、金銭面から禁止しようとする。派遣労働者にとって、一日、1、000円の煙草代は決して安くないはずである。労働者のわずかな楽しみすら略奪することに躊躇ない政治家が多い。彼れらは、口では派遣労働者が「可哀そう」と言っているが、その実態にはほとんど関心はないのであろう。
煙草増税を拒否した自民党の良識ある政治家がまだ存在することにおいて、日本国家の健全性をすこし評価したい。
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誰でも、自分はここにいるべきではないと感じることがある。それは、どのような華やかな場であれ、どのような熱狂に包まれようとも感じることがある。その時、一本の煙草に火をつける時、いつもの自己がまだ生きていると感じられることがある。
外国に初めて行った時のことである。もちろん、知人も友人もいない。医療システムに対する情報もない。自分が属する組織もまだみえない。すべての世界が自分にとって疎遠であると感じられるときは誰にでもあるはずだ。
その時、一本の煙草に火をつける。日本から持参したハイライトである。その一本の煙草に火をつけて一服したときだけ、まだ生きているという実感が生まれた。ここで死ぬわけにはいかないからだ。
そのときの一本の煙草が私に与えてくれた恩義に対して、どのように報いることができるのか、まだ思案中である。
そしてそのような一本の煙草を吸う場所がないことが、人間性を破壊しているのであろう。破壊された場所、破壊された人間性の回復の可能性は限りなく小さい。
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昔、ある青年が「あの野郎、ぶち殺したる」と無意識に叫びながら包丁を持っている姿を目撃したことがある。その姿は鬼気迫るものがあった。しかし、その姿をみたある老人が一本の煙草に火をつけ、その青年に渡した。その青年が煙草を一服した後、肩から力が抜けたようにして、包丁を落とした。
もし、この青年にとって煙草がなければ、殺人罪で少なくとも10年位は刑務所暮らしを余儀なくされたであろう。このような情景が今でも目に焼き付いている。禁煙運動家はそのような青年の行動には無頓着である。
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昔、総評、すなわち日本労働組合総評議会という労働組合の連合組織があった。その是非はともかく、この総評はかつての日本陸軍と同様に独断専行するという性格が強かった。ある評論家がこの組織を評して、昔、陸軍、今、総評という有名な言葉を発した。一番有名な総評が為した行為のひとつは、「スト権スト」であった。労働組合の内部では、一定程度理解されたのであろうが、普遍的意義を持ちえないものであった。とりわけ、国労がこれに参加したことにより、国鉄解体の引き金を引いたと言っても過言ではない。つまり、このストによりすべての貨物列車もストに入り、多くの生鮮野菜を腐らせた。それにもかかわらず、総評、国労の執行部はストを止めなかった。その記憶は今もある。それ以降、農産物の鉄道からトラックへの移行が決定的になった。農家が腐敗する野菜を見て、涙ながらに抗議しても、幹部たちは無視していた。
自らの組織を解体するような愚行の象徴として今でも記憶されている。この愚行を、数十年前の総評を見習った禁煙運動組織が行っている。禁煙もスト権ストも、ミクロ的に考察すれば、正しいかの外観を呈している。スト権ストも労働運動家においては当然=自然のことであった。しかし、その作用が別の領域においてどのような結末を生むのかに対して無頓着であるという点において両者は共通している。国鉄のストによって、国鉄そのものが解体し、禁煙運動によってより巨大な悪をもたらしていることが理解されないようである。昔、陸軍、今、禁煙である。 彼らはなぜ喫煙家が煙草を吸うのかについて全く想像力を働かせないし、その結末に無頓着である。
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雨の降る場外馬券場で警備員をやっていたころの話である。正確な時間を覚えていないが、確か45分警備を担当して、15分休憩室で休憩といって勤務形態であったと記憶している。そこでは、45分間、ただ立っていることが仕事であった。常に時計を気にしながら、休憩の時間がくることだけが楽しみであった。交代要員が来て、休憩室で一本のハイライトを喫煙することのみが唯一の希望であった。雨に濡れながら、一本のハイライトを思い浮かべていた。
このような労働者の唯一の娯楽を剥奪しようとする者はだれであろうか。45分間の労働の唯一の楽しみが一本のハイライトである労働者であろうか。炎天下の自動販売機の前で、一本120円(当時は100円)の冷たいジュースを買おうか買うまいか思案したことがある人間であろうか。
おそらく、そうではあるまい。このような人間の在りようとは無縁な冷酷慈悲のない人間であろう。すべての人生をほぼ計画通りに生きてきた人間であろう。そうでなければ、1箱1、000円の煙草という馬鹿げたことを想像すらできないであろう。
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大学が綺麗になったと評判である。東京の主要大学からは、立て看板がほぼ撤去されている。そして、多くの大学内建物から煙草の灰皿が撤去された。多くの喫煙者は喫煙室という限定された空間においてか、あるいは雨風をきにしつつ屋外で煙草を吸うことを余儀なくされている。
しかし、大学が綺麗になればなるほど、人間の精神も綺麗になるのであろうか。人間そのものが清潔になるのであろうか。かつての大学内において喫煙は講義室でも自由であった。ある刑法学の最高権威の一人は、講義中も喫煙していた。もちろん、流石にこの教授あるいは助教授は灰皿を持参していただろうが・・・。
ここで講義中の喫煙を主張しているのではない。受動喫煙は非喫煙者にとって喜ばしい状況ではないからだ。しかし、喫煙者は白眼視され、惨めな状況下で喫煙を許されているにすぎない。このような精神的不自由のなかで、喫煙という小さな逸脱を抑圧していることによって、大学は綺麗になった。しかし、このような小さな逸脱を排除することによって、大学はより巨大な悪を招き入れてしまった。大麻汚染である。小さな逸脱を許すまじ、というPTA的正義が幅をきかすことによってより巨大な悪を産出した。
ミクロ的に見れば、煙草は多少健康に悪いことになるのであろう。それ自体を否定しているのではない。しかし、人間存在は逸脱を許容している。少なくともそれを意思することによってより巨大な悪から逃れる術を知っていた。少なくとも、煙草の吸殻の落ちていたキャンパスには、大麻はなかった。煙草に満足できなければ、葉巻を吸っていた。しかし、より匂いのキツイ葉巻を吸う環境は少なくとも綺麗な大学からは消えている。煙草から大麻である。あるいは非喫煙から大麻である。段階を踏まえておれば、そのような馬鹿げた飛躍は起きなかったであろう。マクロ的に考察すれば、馬鹿がミクロ的合理性を背負ってやってきたのである。
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学生の方から、投稿したコメントが反映されていないとの問い合わせがありました。確認しましたところ「討論会ーー世界観」というタイトルの記事のコメント欄に、7/22に投稿していただいたコメントがありました。お時間のあるときにご確認ください。【管理人】
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討論会は終了しました。また、一部のコメントの表示が遅れました。陳謝します。この点を指摘いただいた「馬耳東風」氏に感謝します。
ところで、個別コメントに対して応答はできません。あまりに多いので。ただし、一括して総括します。ただ、10月過ぎになります。すいません。私事多忙ということでご勘弁願います。
なお、私にかわり、この討論会全体(コメントを含む)に対する総括がありましたら、よろしくお願いします。できれば、本メイルのコメント欄にコメントをいただければ幸いです。なお、この公開も10月過ぎになります。これもまた、私事多忙ということで。
皆さん、良い夏休みを。夏休みに成長すると小学校のころ聞いた記憶がありあますが。もっとも、大人になれば、夏休みは死語になりました。夏もまた、仕事です。立派な仕事を祈念しています。
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討論会は本日をもって終了します。これ以後、投稿しても削除されます。ありがとうございました。このような難解な課題に対して、投稿があることは現代日本の知的水準の高さを表現しています。
内容に関しては、後日再検討します。
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「個人が変化することによって、その世界観も変化する。この意味の、個人的な、しかし抽象化された水準における考察」に関する討論会を企画します。この討論会に関するコメントを募集します。
なお、コメント欄への投稿は、7月21日から、22日までの2日間だけです。なお、投稿しても、すぐには公開されません。公開はそれ以後になります。
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個人の恣意的自由は他者の自由を侵害しないかぎり、承認されるべきであるという思想がある。少数者の権利は多数者によって侵害されてはならない。社会を多数派の思考様式によって一元化してはならない。「清潔」な社会は、人間抑圧的である。しかし、近代社会はある原理によって社会を一元化しようとする。学問もまたそうである。市場原理によって社会を一元化しようする。共生という概念は知的障害者と健常者との共生として1950、60年代北欧で広まり、米国を経由して日本に輸入された。しかし、現実において共生はほとんど不可能になりつつある。嫌煙権運動は喫煙者と非喫煙者との共生をなぜ指向しないのであろうか。
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近代革命成立以後、現時点に至るまでの社会を近代社会と総称している。しかし、近代社会は1960-70年代を境として大きく変動する。端的に言えば、68年革命の世界的敗北をその分類のメルクマールとする。前期近代と後期近代という時代区分が必要になる。その、分別の根拠として以下のことを挙げることができる。近代革命は通常暴力革命として出現した。前期近代において暴力への一定の了解があった。しかし、後期近代において暴力への社会的承認力は無になる。この暴力革命への対応がこの前期近代と後期近代を分ける分水嶺になるが、それだけではなく、多面的な社会現象として出現してくる。
近代という枠組は不変ながらも、初期近代において想定されていない事柄が出現する。必ずしも、当該事柄が存在しなかったわけではない、たとえば、環境問題も前期近代、あるいは近代以前からに存在していた。鉱山開発は前近代からあったし、それに伴う鉱毒問題、空気の汚染、伐採過多による洪水等の問題もあった。環境問題は後期近代特有の問題として出現した。後期近代に普遍的なものとして一般に認識された。環境問題だけではなく、高齢者問題、高度医療問題、原子力問題等が出現した。このような新しく認識された問題として、生命倫理もある。初期近代において映画「この天の虹」(木下恵介監督、1958年松竹)において、八幡製鉄所からでる煙は「7色の煙」として肯定的に描かれていた。後期近代では、中華人民共和国における工場煙突として非難の対象になっている。
このような近代の一般理論において対応困難な問題が出現することが、後期近代という時代区分を必要にしている。しかし、これらの問題は必ずしもすべての国家に妥当する問題ではない。後期近代においても、このような問題が現象しない国家のほうが実は多い。後期近代という時代把握が生じるのは、西欧を中心とした高度資本主義国家においてのみである。
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哲学あるいは思想という学問が実生活において役に立たないという非難がある。しかし、あることを根源的に考えるという意味において哲学的思考、あるいは思想史的思考は役に立つこともある。もちろん、役に立たない場合も多いが・・・。
その一例として「君を幸せにする」という命題を考察してみよう。よくテレビドラマで結婚を前提にしている若い男女がこのセリフを口にする。たいていの場合、このセリフを男がしゃべることは、いわゆるフェミニズムと関連している。この問題を除外しても、以下のような問題がある。
1、他者がなぜ私の幸福に関与するのか。幸福、あるいは幸福感は個人的領域に属する。なぜ、他者である男(女でもよい)が、私の幸福に関して絶対的力を持つのか。傲慢ではないのか。
2、幸福という観念は多岐に渡る。そこでは、どのような事態が幸福であろうか。3DKの公団住宅に住むことであるのか、4畳半のアパートに住むことなのか。住宅問題を例にとっても必ずしも一義的ではない。あるいは、物質的事態だけではなく、精神的事柄とも関係する。
3、時間という観念が重要である。もし、幸福観念で両者が一致しても、いつまでであろうか。生涯に渡って?そのような数十年後の未来を予想することが可能であろうか。あるいは、今夜だけのことであろうか。そのことを両者が確かめることはない。
4、もし、この命題をテレビドラマ風に解釈したとしても、それが成就されない場合、どのような保障があるのであろうか。この約束が履行されない場合どのような対価が用意されているのであろうか。
ざっと考えてもこのような疑問が生じる。しかし、この言葉が発せさられる状況下においてどれほど人間がこのようなことを考えるであろうか。否、このようなことを考えもしないであろう。人間が理性を喪失し、感情に基づいて行動しないかぎり、第一歩を始めることはできないであろうから。人間理性は脆いものである。しかし、理性を喪失した場合のほうが良い結果をもたらすと言ってもよいかもかもしれない。保障のかぎりではないが・・・。
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